小泉陣屋(小泉城)の範囲(2)

1)より続く

ここまで緩やかな坂を上がったら台地に高さが揃うので、台地側(南)へ折れます。

ここが藩主邸の入り口につながる道です。

途中で一旦西向きに曲がっていた筈ですが、細い路地なので見学での通行は気をつかうかもしれません。そして、このあたりに藩主邸の表門があったのではないかと推察されます。※道の中央に棒が刺されています。私道のため通行にはご配慮ください。

藩主邸表門があったと思われるあたり

参考にしたのは
・京谷康信氏による「片桐城址乃見取図」-昭和5年
・米田藤博氏による「小泉藩の陣屋と郭内」図-平成21年

ここで一旦、「陣屋」とはどういうものなのかをまとめてみます。

いわゆる「無城大名」の居所で、武家屋敷と城下町(城は無いので城下とは言えず「町屋」)があるものの、天守閣のあるような「お城」ではなく「藩主のお屋敷」が町の中心、城郭のある町に比べるとかなり小規模なものです。大和郡山市だと郡山藩が幕末まで残り、郡山城天守閣は(二条城を経て淀城に移築された可能性大)再建されることは無かったものの大規模な堀や天守台があり、城下町の町割りも色濃く残っています。

余談ですが、小泉藩のことを調べるにつけ、残っている史料らしきものが少なく、あまり研究もされず、一方で郡山藩(柳沢家)は柳沢文庫さんに各種史料が多く残されうらやましく思っています。まあ規模はまったく違うので仕方ないのですが。よって憧れも含めて当ブログタイトルを「小泉文庫」にしました。

江戸末期に百家あまりあったとされる陣屋住まいの大名は関東と近畿に集中しており、東北や中四国・九州には少なかったそうです。小泉藩は当初1万6000石でしたが分知(知行の一部を親族に分与すること、分家)を繰り返したため幕末には1万1200石程度になっていました。とはいえ片桐の藩主は参勤交代をしており、江戸屋敷も存在していました。遠景ながら江戸上屋敷の写真も残っています(イギリス人写真師フェリーチェ・ベアト撮影の愛宕山からのパノラマ写真)。※この写真を見た時は結構「おおっ」となりました。

幕末の江戸300藩のうち奈良県下にあったのは以下の七藩でした。
郡山藩(城)
高取藩(城)
小泉藩(陣屋)
柳本藩(陣屋)
芝村藩(陣屋)
柳生藩(江戸定府)
櫛羅藩(江戸定府)
※田原本藩は藩として存在したのが明治維新ごろの短期間だったので入れませんでした。

小泉が名を連ねていたことは、地元の方々にも是非知って頂きたいと思っています。

では再び陣屋を考察します。

先に参考資料として挙げた京谷康信氏の著書「片桐といふ處」に収録された図「片桐城址乃見取図」には、おおまかな藩主邸宅の配置と、武士の屋敷が名前入りで記載されています。先程このあたりに藩主邸の表門があったのではないかとした場所は、この図の中央、お庭池の北側に「庫」と書かれている倉庫の北側です。

京谷康信氏著「片桐といふ處」付録「片桐城乃見取図」を引用致しましたが個人名を伏せる加工をしました。

この図は元々あった「小泉城址復元図」を元に京谷康信氏が調査を重ねて昭和5年に出版された本に付録としてつけられていたもので、現在の地形に照らしてもわかりやすく、2020年の今見て、相当な熱量で調査されたのだろうと想像します(今から90年前のことですから)。小泉藩の家臣(藩士)の住居がここまで詳細なのはこれしか見たことがありません。藩士については後々書くつもりでいますが、小泉藩の人口がだいたい1万人位、武士(士分)は幕末時点で150人程(足軽は含めず)が存在し域内に住んでいたので、そのうちの半分程度の住居を昭和に入って京谷氏が割り出されたことに驚愕しました。京谷氏は竜田ご出身で、片桐小学校の校長をされた方です。私はもっと時代が下ってからの片桐”西”小学校出身ですが、「京谷先生」がいらっしゃった記憶があります。もしかすると康信氏のご子息だったのかもしれませんが、もし叶うならお話を伺ってみたいです。

「片桐といふ處」は奈良県立図書情報館で閲覧ができます(書庫史料)。ご覧のようにノートを本に仕立ててあり、全ページ手書きで、ところどころ薄くなっているので閲覧時は注意が必要だと思います。片桐小学校にて学芸展覧会をするにあたり、その記念として調査発表されたものだと書かれています。当時ですら「日々に開墾されて城としての面目は殆ど失われ、士族は各地に離散し、故老は次第に失われて行く。今若し機を失せば此の種の調査は一段の困難を見るであらう」と書かれていて、私がこの地に関心を持った中でこの書に出会えたことは、僥倖としか思えませんでした。

コピーを持っていますので、確認したいことなどがありましたらお問い合わせください。

小泉陣屋(小泉城)の範囲(1)

訪れる人が結構戸惑っていらっしゃるのが、城跡や居館らしき痕跡がほぼ無いことかと思います。復興した隅櫓がある「なぎなた池」ほとりの高林庵は、石州流茶道宗家宅ではありますが、江戸時代の藩主邸は「小泉城跡石碑」の建つ高台にありました。

とはいえ、高林庵の櫓は大変立派なもので、往時の雰囲気を最も感じられるのではないかと思います。

小泉氏については今のところ殆ど史料を見つけることができていませんが、元は興福寺配下の一豪族で、1400年代には隣の筒井氏とよく争いがあったようです。永禄4年(1561)、小泉四郎左衛⾨重順が松永久秀に攻められ自害、しかし筒井氏の計らいで小泉氏は存続し、小泉四郎秀元(先の四郎左衛門とは別人)が筒井順慶の姻戚となり、天正12年(1584)には筒井氏の移封に随い伊賀国に移ったことなどが記録されているようです。小泉町善福寺に小泉四郎左衛⾨重順の墓があると記載されたものもありますが、どうやら江戸時代になってから制作された墓であると、昭和初期の書物(「大和片桐村の金石文」高田十郎氏著)には書かれていました。

※大河ドラマ「麒麟がくる」で多聞山城主の松永久秀(吉田鋼太郎さん)が出てくると複雑な気持ちになります・・・。小泉を攻めたことも描いて欲しいような欲しくないような。

その後、世は豊臣の時代となり石高制が全国的にひかれるようになりました(太閤検地以降)。郡山城100万余石大名、豊臣秀長の家老である羽田長門守が、小泉氏転出後の小泉の地に天正~文禄(1570~1590)頃、4万8000石で館を構えました(大和郡山市史本編P.365参照)。

後に小泉藩主となる片桐貞隆は賤ケ岳七本槍で名を馳せた片桐且元の弟で、天正8年(1580)21歳で藤吉郎秀吉に仕え播州150石を与えられました。その後は秀吉の勢いにつれ知行高も増え(山城、泉州、尾州など)、慶長6年(1601)42歳の時秀頼から大和国添下郡十三か村8000石弱を加増され都合高1万13石1斗の万石大名になりました。

※この十三か村の内訳は、伊豆七条村、田中村、小泉村、万願寺村、新木村、池内村、豊浦村、小南村、小林村、天井村、夙村、筒井村、杉村。(大和郡山市史P.362より)(※別の資料では伊豆七条村、田中村、小泉村、万願寺村、新木村、池内村、豊浦村、小南村、小林村、天井村、西村、筒井村、杉村 とされているものもあり2022年06追記

大阪冬の陣にて徳川方についた片桐且元、貞隆兄弟は摂津茨木に居城していましたが大阪城落城後且元はほどなく死去。且元家は大和竜田を与えられていたのでその嗣子が竜田を治めたものの大名としては存続することはなかったのです。

https://www.asahi.com/articles/ASJ9Z61XWJ9ZPLZB01V.html (こっそり「大坂冬の陣、和睦へ」 片桐且元の書状発見:朝日新聞デジタル)

弟の貞隆は徳川秀忠から引き続き旧来の知行を認められ、元和元年(1615)以降も本拠を茨木に置いていましたが、元和9年(1623)になってようやく知行地の小泉に拠点を移します。これが「小泉藩」の始まりと言えそうです。この時の藩領は上述の大和国添下郡13村、山城国(久世・相楽)に2村、河内国(交野・河内・丹北・讃良・八上)に5村、摂津国(川辺・八部・兎原)に7村、和泉国(和泉)に1村で1万5020石を知行するまでになっていました。(最大時で1万6716石)

小泉氏、羽田氏が館を構えた小泉は台地になっており、陣屋を構築するには申し分のない地形で、ゆくゆくの拡張も見越していたと見られます。陣屋周囲の内堀は延宝6年(1678)に銀四貫目をかけて完成したと「片桐家旧記」にあるそうですが、「大和郡山市史」には旧記の当該部分は載っていませんでした。外堀、お庭池、薙刀池は何時頃できたものかは不明です。おそらく羽田氏によったのではないかとされています。

ここまで解説が長くなりましたが、その陣屋まわりの堀(堀跡)を見てみると、おおよその陣屋範囲がわかるかと思い、各種史料を元にgooglemap上に堀を線引きしてみました。水色は水堀、緑色は空堀だったのではないかとの想定です。現在の地形から推測しての線引きですので、間違いもあるかと思います。細部においてはご容赦くださるようお願いします。現在居住されている方がお気を悪くされないことを祈ります。

ここで、実際の地を歩いてみます。

(説明のために写真を撮りましたが、どうしても個人のお宅が写り込んでしまいます。ボカシを入れたりするとわかりにくくなるので、表札は入らないよう角度には気をつけました。もし、気になる方がいらっしゃるようでしたらご一報頂ければ撮り直し致します。)

 まず、大和小泉駅からいわゆる「小泉城跡」に向かうと最初に目にするのはこの案内碑です。

この奥に進むと石の階段があります。これは後世につけられたものでしょう。階段を上がると小泉城跡の石碑が建つ小さな公園が。お地蔵さんがポツンとあるだけです。

ここで一旦もどってブラ〇〇〇のごとく高低差(地形)を見てみます。

「片桐城跡」案内碑から西へ向かう道はゆるやかな坂道になっています。この道路は昭和初期に整備された「新道」だと古くからお住まいの方にお聞きしました。

少し進むと左手に急勾配の坂があります。

これも昭和前半に設置されたようです。陣屋があった台地の高さがよくわかります。

そしてここから西を見てみると、ゆるやかな坂が続き、この台地と高さが揃うようになります。

この台地の南側に廻ると、やはり坂道があります。

この坂と坂に挟まれた範囲が藩主居住地です。

完全に住宅街で、生活道路になっているためブラ〇〇〇される方はご配慮くださいね。

(2)に続きます。

小泉の地名

小泉城についてはこちらの大和郡山市歴史辞典に詳しく書いてくださっていて、『額安寺⽂書』によると839年(貞和6年)には小泉庄に地侍の小泉氏がいたことがわかっています。

小泉城https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/src/history_data/h_021.html

小泉の地名は、湧き水が枯れたことがないとされる「小白水」という泉から名付けられています。小白水を縦書きすると、「小泉」とも読めます。

江戸時代前期(寛文三年)に石州が建立した石碑(現在は片桐地区公民館の敷地内に設置)

小白水は片桐石州(小泉藩2代目藩主定昌)が茶の湯に使用していたとも言われ(近いので当然かと)、古来から名水として重宝されてきたようです。残念ながら県道に面していて車の往来が多いので、じっくり見ることは難しいですし、すでに井戸そのものは埋められているのですが、 ここが地名の由来だということはもう少し知られてもいいのかな。と思います。

場所はこちら