小泉陣屋(小泉城)の範囲(1)

訪れる人が結構戸惑っていらっしゃるのが、城跡や居館らしき痕跡がほぼ無いことかと思います。復興した隅櫓がある「なぎなた池」ほとりの高林庵は、石州流茶道宗家宅ではありますが、江戸時代の藩主邸は「小泉城跡石碑」の建つ高台にありました。

とはいえ、高林庵の櫓は大変立派なもので、往時の雰囲気を最も感じられるのではないかと思います。

小泉氏については今のところ殆ど史料を見つけることができていませんが、元は興福寺配下の一豪族で、1400年代には隣の筒井氏とよく争いがあったようです。永禄4年(1561)、小泉四郎左衛⾨重順が松永久秀に攻められ自害、しかし筒井氏の計らいで小泉氏は存続し、小泉四郎秀元(先の四郎左衛門とは別人)が筒井順慶の姻戚となり、天正12年(1584)には筒井氏の移封に随い伊賀国に移ったことなどが記録されているようです。小泉町善福寺に小泉四郎左衛⾨重順の墓があると記載されたものもありますが、どうやら江戸時代になってから制作された墓であると、昭和初期の書物(「大和片桐村の金石文」高田十郎氏著)には書かれていました。

※大河ドラマ「麒麟がくる」で多聞山城主の松永久秀(吉田鋼太郎さん)が出てくると複雑な気持ちになります・・・。小泉を攻めたことも描いて欲しいような欲しくないような。

その後、世は豊臣の時代となり石高制が全国的にひかれるようになりました(太閤検地以降)。郡山城100万余石大名、豊臣秀長の家老である羽田長門守が、小泉氏転出後の小泉の地に天正~文禄(1570~1590)頃、4万8000石で館を構えました(大和郡山市史本編P.365参照)。

後に小泉藩主となる片桐貞隆は賤ケ岳七本槍で名を馳せた片桐且元の弟で、天正8年(1580)21歳で藤吉郎秀吉に仕え播州150石を与えられました。その後は秀吉の勢いにつれ知行高も増え(山城、泉州、尾州など)、慶長6年(1601)42歳の時秀頼から大和国添下郡十三か村8000石弱を加増され都合高1万13石1斗の万石大名になりました。

※この十三か村の内訳は、伊豆七条村、田中村、小泉村、万願寺村、新木村、池内村、豊浦村、小南村、小林村、天井村、夙村、筒井村、杉村。(大和郡山市史P.362より)(※別の資料では伊豆七条村、田中村、小泉村、万願寺村、新木村、池内村、豊浦村、小南村、小林村、天井村、西村、筒井村、杉村 とされているものもあり2022年06追記

大阪冬の陣にて徳川方についた片桐且元、貞隆兄弟は摂津茨木に居城していましたが大阪城落城後且元はほどなく死去。且元家は大和竜田を与えられていたのでその嗣子が竜田を治めたものの大名としては存続することはなかったのです。

https://www.asahi.com/articles/ASJ9Z61XWJ9ZPLZB01V.html (こっそり「大坂冬の陣、和睦へ」 片桐且元の書状発見:朝日新聞デジタル)

弟の貞隆は徳川秀忠から引き続き旧来の知行を認められ、元和元年(1615)以降も本拠を茨木に置いていましたが、元和9年(1623)になってようやく知行地の小泉に拠点を移します。これが「小泉藩」の始まりと言えそうです。この時の藩領は上述の大和国添下郡13村、山城国(久世・相楽)に2村、河内国(交野・河内・丹北・讃良・八上)に5村、摂津国(川辺・八部・兎原)に7村、和泉国(和泉)に1村で1万5020石を知行するまでになっていました。(最大時で1万6716石)

小泉氏、羽田氏が館を構えた小泉は台地になっており、陣屋を構築するには申し分のない地形で、ゆくゆくの拡張も見越していたと見られます。陣屋周囲の内堀は延宝6年(1678)に銀四貫目をかけて完成したと「片桐家旧記」にあるそうですが、「大和郡山市史」には旧記の当該部分は載っていませんでした。外堀、お庭池、薙刀池は何時頃できたものかは不明です。おそらく羽田氏によったのではないかとされています。

ここまで解説が長くなりましたが、その陣屋まわりの堀(堀跡)を見てみると、おおよその陣屋範囲がわかるかと思い、各種史料を元にgooglemap上に堀を線引きしてみました。水色は水堀、緑色は空堀だったのではないかとの想定です。現在の地形から推測しての線引きですので、間違いもあるかと思います。細部においてはご容赦くださるようお願いします。現在居住されている方がお気を悪くされないことを祈ります。

ここで、実際の地を歩いてみます。

(説明のために写真を撮りましたが、どうしても個人のお宅が写り込んでしまいます。ボカシを入れたりするとわかりにくくなるので、表札は入らないよう角度には気をつけました。もし、気になる方がいらっしゃるようでしたらご一報頂ければ撮り直し致します。)

 まず、大和小泉駅からいわゆる「小泉城跡」に向かうと最初に目にするのはこの案内碑です。

この奥に進むと石の階段があります。これは後世につけられたものでしょう。階段を上がると小泉城跡の石碑が建つ小さな公園が。お地蔵さんがポツンとあるだけです。

ここで一旦もどってブラ〇〇〇のごとく高低差(地形)を見てみます。

「片桐城跡」案内碑から西へ向かう道はゆるやかな坂道になっています。この道路は昭和初期に整備された「新道」だと古くからお住まいの方にお聞きしました。

少し進むと左手に急勾配の坂があります。

これも昭和前半に設置されたようです。陣屋があった台地の高さがよくわかります。

そしてここから西を見てみると、ゆるやかな坂が続き、この台地と高さが揃うようになります。

この台地の南側に廻ると、やはり坂道があります。

この坂と坂に挟まれた範囲が藩主居住地です。

完全に住宅街で、生活道路になっているためブラ〇〇〇される方はご配慮くださいね。

(2)に続きます。

小泉の地名

小泉城についてはこちらの大和郡山市歴史辞典に詳しく書いてくださっていて、『額安寺⽂書』によると839年(貞和6年)には小泉庄に地侍の小泉氏がいたことがわかっています。

小泉城https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/src/history_data/h_021.html

小泉の地名は、湧き水が枯れたことがないとされる「小白水」という泉から名付けられています。小白水を縦書きすると、「小泉」とも読めます。

江戸時代前期(寛文三年)に石州が建立した石碑(現在は片桐地区公民館の敷地内に設置)

小白水は片桐石州(小泉藩2代目藩主定昌)が茶の湯に使用していたとも言われ(近いので当然かと)、古来から名水として重宝されてきたようです。残念ながら県道に面していて車の往来が多いので、じっくり見ることは難しいですし、すでに井戸そのものは埋められているのですが、 ここが地名の由来だということはもう少し知られてもいいのかな。と思います。

場所はこちら