小泉城址(小泉城跡)の変遷(3)

少し趣向を変えて、上空から城跡(陣屋跡)を見てみます。国土地理院のサイト「地図・空中写真閲覧サービス」で、日本全国の過去の航空写真を閲覧することができるのです。小泉陣屋本丸付近を何年分かピックアップしてみました。

2008年(平成20年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

わかりやすくするために、現在城址の石碑が建って居る場所に赤丸をつけました。今が2020年なので12年前ですが、多少住宅は増えたり建て替えなどあるにしても、今もさほど変わってはいないようです。ではさらにさかのぼります。

 

 

1979年(昭和54年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

さらに20年前、1979年(昭和54年)です。住宅もまだ多くはなく、空き地や森が多く見えます。お庭池北側はまだ分譲されていません。

 

 

1975年(昭和50年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

4年遡って、1975年(昭和50年)です。更地が多く感じられます。木が茂る前の様子がわかります。石碑付近も土地が露出していますね。私の記憶では石碑の西側は資材置き場として使われていたように思います。軽トラックらしきものも見えます。

 

 

1961年(昭和36年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

更に14年前。この頃は片桐中学校があった時代です。中学校の様子が良くわかります。石碑は昭和26年に建てられたので、写っています。この中学に通っていらした方にお聞きしたところ、この石碑の西側にある楕円形のものは泉水(せんすい:庭園に造った池)だそうです。この後宅地分譲する1970年頃(昭和40年代)の様子を知りたかったのですが、あいにく鮮明な航空写真は見つかりませんでした。

 

 

1948年(昭和23年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

これが探した中で一番古いものでした。小泉城址の石碑は建てられる前なので、おおよその見当をつけて赤丸を書き入れました。片桐中学校は昭和23年に建てられた筈なので、この航空写真は中学校が建つ直前ではないかと思われます。前記事に書いた「ゴム工場」と「片桐神社」らしきものが見えます。以下に再掲します。

1930年(昭和5年)京谷康信氏作画の城址図

昭和23年には住宅も殆どなく、ただただ土地が広がっているような感じです。昭和5年当時は柿の木がよく茂っていたらしいので、その後ゴム工場のオーナーがこの地を購入されたのでしょうか。もしかすると小泉城址の変遷(1)で記した顕彰碑にある人物「吉田亀吉氏」と関係があるのかもれません。斑鳩町の図書館へ行けば何かわかるかもしれないので、またそのうちに調べてみます。

 

最後に、5枚の写真をスライドショーにしたものを掲載します。

小泉城址(小泉城跡)の変遷(2)

小泉陣屋の範囲(2)で引用した「片桐といふ處」には、別の図面も収録されていました。例によって個人宅のお名前は隠す加工をしています。

京谷康信氏著片桐といふ處」付録図

これを見ると、藩主邸宅跡に片桐神社があったような図になっています。「現在」、とあるのは出版時点、つまり昭和5年当時の様子であることを指します。本文には「藩主邸宅址に片桐神社があって、一間社春日造の神殿が、木鳥居一□無銘石燈籠二基と淋しく立って居るのは物あはれな感じがせぬではない」と記述があります(※一間社春日造は柱が2本で、桁行(柱の間)が1間のこと)。前記事(1)で解読した顕彰碑に記載がある「小泉神社(飛地境内)」

この付近は、小泉陣屋(片桐藩主家敷跡)が構えられ、また小泉神社(飛地境内)のあった所として広く親しまれてきた。

と関係がある気がします。そこで実は前から気になっていたことがあり、先日小泉神社に行ってきました。小泉神社境内に「片桐神社」があるのです。

小泉神社、本殿に向かって立つと右手に片桐神社があります

先日朔日参りをして、本殿を覗くとたまたま璒美川宮司がいらしたのでお話を伺ってみました。大変気さくな宮司様で、いろいろ聞くと教えて下さいました。片桐神社は、やはり藩主の邸宅内に元々あったそうです。中学校を建てるので、小泉神社境内に移転されたとのことで、モヤモヤが晴れました。そしてこの片桐神社は藩祖片桐貞隆の兄である片桐且元を祀っていることも教えて頂きました。藩主邸内に、兄を祀る神社を作っていたと考えると、兄弟の仲がすごくよかったのだなと感じます。

ついでながら、「昔は稲荷神社もあった」とのこと。確かに高林庵横の道路沿いに碑があります。

高林庵北側の道沿いにある片桐稲荷碑

この碑は昭和に入ってから建てられたものですが、昔はこのくぐり戸からお稲荷さんにお参りができたらしく、松尾山に上がる時にここに立ち寄るのがコースになっていたとか。

 

ところでもう一つ、気になるのは昭和5年には現在の城趾区域に「ゴム工場」があったらしいということです。藩主邸宅跡はの変遷は、

  • 明治~大正期間:不明
  • 昭和初期~昭和23年:ゴム工場と片桐神社
  • 昭和23年~昭和40年頃:片桐中学校
  • 昭和40年~:宅地分譲

と整理されるのかなと思います。ゴム工場について、何かわかると良いのですが。

続く

小泉城址(小泉城跡)の変遷(1)

城趾の石碑

現在、城趾公園として小さなスペースになっている場所に石碑がありますが、これは昭和26年に建てられたものです。裏面にまわるとそのことがわかります。

 

結構葉が茂ってくるので刈った直後にしかはっきり見えません

石碑建立に尽力された地元の方々のお名前が並んでいます。この石碑が建てられた頃、この場所には「片桐中学校」が存在しました。(現在の片桐中学校とは違います。)地元で、ある程度の年齢以上の方はこの(旧)片桐中学校ご出身のかたも多いかと思います。その頃の写真があればいいなと思いますが、身近に卒業生がいないので卒業写真などを見ることができません。もしお持ちのかたがいらっしゃれば、校舎の様子などを見せて頂きたいなと思うのですが。

中学校が建てられたのは昭和23年で、そのことは石碑横にある顕彰碑にも記されています。訪れる人は、新しい方の案内版は熱心に読まれていますが、足元の顕彰碑は読みづらいのもあって見逃している人が多いようです。

小泉城址顕彰碑

書かれている内容は

この付近は、小泉陣屋(片桐藩主家敷跡)が構えられ、また小泉神社(飛地境内)のあった所として広く親しまれてきた。なおこの地は昭和二十三年三月旧片桐中学校々舎が建設されるに當り所有者、斑鳩町笠目吉田亀吉氏が市へ提供されたものである。昭和五十五年七月建之大和郡山市長吉田泰一郎

いくつか気になったので調べていきました。

斑鳩町の吉田亀吉氏、何故この地を所有されたのかはわかりません。当時の市長と姓が同じなのも若干気にはなりますが、わからないのでとりあえず保留。あれこれ調べていると、亀吉氏は他にも痕跡がありました。斑鳩町笠目というと、JR大和路線法隆寺駅の近くです。法隆寺駅にもまた、亀吉氏の遺された石碑がありました。昭和二年建之、資産家でいらしたのかなと想像します。

JR大和路線法隆寺駅 広瀬神社道標

昭和23年から昭和40年頃まで、小泉陣屋跡には上記のとおり中学校がありましたが、その後住宅地として分譲されました。藩主邸跡地、特に台地先端部は6人の地元の方々が買われたそうで、六人衆とも自称されていたとか。(A氏、K氏、S氏、F氏、M氏、Y氏)いずれも元藩士または有力町人だった方々の後裔です。何かこの地への思いがあったのかもしれませんね。

続く