小泉の城下町(1)で描いた町方図は昭和10年頃の様子でした。国土地理院のサイトで公開されている昭和23年の航空写真に重ねます。地形に殆ど変化は無いので現在の景色からでも想像しやすいです。

元の航空写真も下に貼っておきます。昭和23年には片桐西小学校が建っていませんし、慈光院の南側、しまむらやダイソーに向かう西向き上り坂の太い道路もまだ整備されていません。コーナンの前から斑鳩へ続く道はまだありません。コーナンから大和小泉駅へ続く道はできていますが、当時は「新道」と呼ばれていたそうです。そういえば、現在の片桐中学校のある場所は昭和50年代中頃までは池でした。埋め立てて学校を建てられました。

では各所で現在の写真を撮ってきましたので、南から見ていきます。

①町方入口あたり
出張(でばり)と言われた地域です。左に見えている石の道標には西へ行くと法起寺と法輪寺へ続くと書かれています。建てられた年月日は読み取れませんが、奈良街道を竜田へ向かうか天理方面へ向かうかの分かれ道だそうです。
※参考:南都銀行地域事業創造部サイト

②小泉神社鳥居前
ここで右折れして東に向かうと本町です。小泉神社の鳥居あたりまでは平らな道ですが、その先は上り坂になっており、この付近に陣屋郭内の南門がありました。

③本町桝形(鍵曲・クランク)
城下町特有の鍵型に曲がった道路です。 街道を屈曲させることで外敵の侵入を妨げる防御装置としての役割がありました。

④高灯籠
ある程度の年齢以上の地元のかたは、この囲いの前に「たこ焼き店」があったことを記憶されているのではないでしょうか。(コンクリートブロックの土台がその形跡)
この灯籠は江戸時代末期嘉永5年(1852)に有志により建てられたもので前面中央に「太神宮」その下に「月参講」と彫られています。つまり、伊勢講の月参り場所(遥拝所)だったのでしょう。奈良街道は、当時熱狂的だったと言われるお伊勢参り参拝者の通り道でした。このような太神宮さん灯籠は奈良盆地各所にみられます。

⑤庚申堂(尭然山金輪院)
庚申さん、と呼ばれ親しまれています。1659(万治2)年、片桐2代目藩主貞昌(石州)の家臣で茶人でもある藤林宗源が創建しました。「一国一宇」大和国にひとつだけの庚申信仰の総道場ということで門前の灯籠は④と同年の嘉永5年造立ですが「郡山御膳講」と記されており、大和の国の大藩であった郡山藩から寄進されたもののようです。講中(講を作っていた人々)の名前も、柳町や岡町、材木町などです。小泉藩だけの庚申さんではなかったことがわかります。

⑥庚申堂裏門
この門は陣屋裏門が移築されたものと伝えられています。ただ、その裏門がどこにあったのかは史料がなく、瓦に片桐家の家紋「片桐違い矢(かたぎりちがいや)」がついているので、そうであることに思いを馳せることができるのみです。

⑦陣屋追手門への入り口
何も痕跡はありませんが、直進すると町方の北之町、左に折れると追手門に至る丁字路です。
道幅が狭い住宅街で車の通りは多くないですが、ここでの離合は譲り合いの気持ちが必要です。
※離合というのは西日本に多い表現だそうで、車のすれ違いのことです。

⑦ 陣屋追手門への入り口
ここは左右の道が低くなっています。水路と垂直交差するのでかつては左右とも堀か水路だったのではないでしょうか。

⑧追手門跡地
右側は公民館ですが一昔前は小泉保育所でした。このあたりに追手門があり、現在は小泉神社に移築され山門として残ります。門の横手は土塁だったそうです。藩の牢がここにありました。
この坂を上り始める左手に「親子塚」があります。

⑧親子塚(追手門跡西側)
―ある娘が若い武士との間に男の子を産んで亡くなった。その子村川兵蔵の養父、村川兵大夫は明石藩士瀬川藤太郎にあやまって斬られたのだが、1613(慶長18)年、この大和小泉において兵蔵が出会った藤太郎こそが実父だと判った。藤太郎は「生みの親より育ての親。私を討ちなさい」と告げ切腹。兵蔵も後を追って自害した。藤太郎39歳、兵蔵17歳。―
この親子を弔う塚です。写真を撮った日の天気が良く、フレアが出てしまいました。
※物語はこのリンク先で読むことができます(くずし字なので私は少しずつ頑張って読んでいます)。【和州小泉敵討親子塚】(国文学研究資料館)
町を歩くだけでは地形がわかりにくいですが、航空写真を見ると小泉城(陣屋)の城下町のイメージがしやすくなります。これからもいろいろ史料を探してみようと思っています。