小泉の太神宮常夜燈(1)

小泉の城下町(2)で触れた高灯籠について、もう少し書きます。

太神宮と正面に記されている、奈良県内にたくさんある近世石造物です。伊勢信仰の奉納物とされており、県内で確認されているものだけで何百基もの太神宮常夜燈があるとのこと(「太」ではなく「大」神宮と表記しているものもあります)。太神宮常夜燈についてはよく知らなかったのですが、全国に分布されているとはいえ、その殆どは三重県と奈良県に集中しているそうです。大和郡山市内でわかりやすいのは奈良口(秋篠川を挟んだ九条公園の南側)の常夜燈で、灯籠の脇に「伊勢神宮遥拝所」と記した新しい石碑が設置されています。郡山のものも、小泉のこれも、奈良街道沿いにあることから、参宮の道しるべでもあったと言えそうです。この前の道から富雄川を渡り南東に行くと大和小泉駅へ着きますが、江戸時代には橋は架かっておらず渡しであったらしいので、もしかすると現在の道路上にあったものを移設したのかもしれません。
※太神宮常夜燈については、荒井留五郎氏著 「奈良県の太神宮常夜燈」「東海近畿の参宮常夜燈」を参考にしました。

小泉橋西にある大神宮灯籠

近づいてみると大小2基あり、この形状は宮立形というものです。

大きいほうは
正面(南面)に「太神宮」
東側に「嘉永五年歳次壬子春三月」
西側に「御領主御武運長久」
と彫られています。嘉永5年は1852年、明治元年が1868年なので、幕末近い年代です。
小さいほうは
正面(南面)に「常燈」」
北側に「大正三年」「3人の人名」
東側にも何か彫られていますが読めませんでした。

 

3段の台石にある人物名は、苔や汚れで読めないものもありますが、かなり多く判読できるので、書き出してみることにしました。個人名ですが、誰でも見られる場所に設置されていることと、この時代の人はすべて故人であろうことからテキスト化しても大丈夫かと思いました。
全体をみたところ、上から1段目は藩士の名、2段目は屋号があるので商人、3段目は名字がない人物が多く、町人や庄屋筆頭に農民なのかもしれません。1段目が藩士だとわかるのは、別の史料で確認できる藩士と合致する名が殆どだからです。

【上段】

講中
大河原 可敬
原田 廣馬
田嶋 清右衛門
丙?

【中段】 講中  北之町 不動院 村戸 角兵衛    七郎兵ヱ 芋屋 甚二郎    清八    庄二郎    伊八    吉三郎 下駄屋 儀兵ヱ  仝  勘七     佐七     八十一     萬七

【下段】

講中
富本 長右ヱ門
   佐兵衛
   多右ヱ門
   又二郎
   惣兵ヱ
   揔七
   善兵ヱ
   新右ヱ門
   庄右ヱ門
   甚二郎
   新六
   甚八
   弥四郎
   宇之松
   久二郎
   八十七
北之町
   平兵ヱ
   政七
   長八

南面は比較的読み取りやすいです。汚れが少なく、おそらくすべての人名を書き起こせたのではないでしょうか。
中段の「世話人」にある屋号のお家のかたが、今も時折雑草を取ったり掃除をしてくださっている姿をお見掛けします。おそらくボランティアでしょうし、ありがたいですね。

【上段】

杉原 健之進
前川 源五兵ヱ
波多野 秀二郎
浦野 官次
篠田 甚右ヱ門
嶋田 造酒允
野澤 左仲
山本 銀大夫
西 宗兵衛
川口 又太郎
好川 又三郎
矢追 喜蔵
北尾 専左ヱ門
山本 博
荒川 為七
川村 亀太郎
三浦 久太郎
北畠 弥三郎

【中段】  世話人 村井 又五郎  中之町 萩原屋 又兵衛  南之町 秋田屋 藤兵ヱ  北之町 菓子屋 源蔵 番場屋 喜兵ヱ  出張 和泉屋 佐兵ヱ 米屋 善六    吉三郎 米屋 庄三郎  市場    甚七     七 綿屋 源三郎  仝 伊三郎    三郎兵ヱ    茂平治

【下段】  出張講中 仲澤 彦二郎 竜屋 忠二郎    新七    藤兵ヱ    久兵衛 戎屋 徳兵ヱ    源三郎    源六    庄五郎    伊兵ヱ    勘三郎    新八    又吉    新造    長四郎    市三郎    太蔵    権三郎    庄二郎    岩枩    好松    善兵ヱ    弥八

西面は残念ながら殆ど読めませんでした。苔というより藻のような汚れと雨だれ汚れで、できれば早いうちに拓本を取るなどしない限り、判読は難しくなる一方な気がします。

【上段】 河埜 〇〇 〇〇 〇〇 佐〇 〇〇 宮〇 〇〇 森本 〇〇 山村 〇平 水田 久治 谷田 〇〇 上原 〇〇

【中段】

【下段】 〇〇 久兵ヱ 〇〇講中    伊兵ヱ    甚内

伊勢参り(お蔭参り)は言葉として知ってはいても、どの位の熱量だったのかは想像がつきませんでした。たまたま6月にNHKでおかげ参りの特集番組があり、伊勢講についてもイメージができるようになったので、小泉藩でも講が結ばれていたことに思いを馳せることができました。ここに刻まれた人々は、身分によらず伊勢講を通じて親しくしていたのかな、と感じます。