小泉にある他の太神宮常夜燈も2基紹介します。1基は慈光院の池のほとり、富雄川沿いに他の石碑と一緒に設置されている北之町灯籠です。小泉の太神宮常夜燈(1)で書いた嘉永5年のものより20年古く、天保3年壬辰9月と記されています(天保3年は1832年)。おそらく何かのタイミングで移設されたような雰囲気ですね。石碑広場みたいになっていて、奥にあるのが「忠魂碑」と記され陸軍の軍人名、左側のものは「殉国之碑」とあり数多くの個人名が刻まれています。太平洋戦争の犠牲者のようです。
こちらの太神宮常夜燈も頑張って人名を解読してみましたが、かなり薄くなっていて難しいです。右側(北面)を見ることができなくて、葉が落ちる冬に狙ってみたのですが、読み取ることができませんでした。


【上段】
北之町
【下段】
〇〇〇〇〇〇
池内村九兵衛
小南村源左衛門
同村 太右衛門
吉屋善兵衛
同 馬蔵
綿屋源三郎
伊谷浅右衛門
〇本屋半兵衛
加勢屋藤兵衛
堀内徳(?)兵衛
西村〇〇〇
田辺与左衛門
小西八左衛門
釜下庄兵衛
豊中村勝五郎

【上段】
〇〇〇〇〇〇
〇〇理三郎
〇出源三郎
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
不明
【下段】
池上村甚〇〇〇
北出村〇大〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇庄右衛門
〇〇屋〇七
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇田屋半(平?)兵衛
世話人
〇屋源蔵
〇〇屋〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
前面、側面に「豊中村」「北出村」「池上村」(いずれも現在の泉大津市)の人物名が入っていて、そういえば小泉藩の支配地に泉大津があったことを思い出しました。泉大津市のサイトにもそのことが書かれています(※リンク先が改修されたようで、こちらのPDF6ページ目に書かれています)。支配地についても今後書いてみようと思います。この灯籠の見えている前面(東面)と南面に刻まれている人物名は、屋号や村名が多く、城下町の町人や農民なのかな?と想像します。灯籠上部の側面には「御領主御武運長久」と、領主である片桐氏(この時代は8代片桐貞信)の武運長久を祈った言葉が記されています。
次の1基は、市場の細い道沿いに残っているものです。正面に「村中安全」と記され、明治13年12月に建てられたことが裏面に記されていました。こちらは汚れがひどく、名前を読み取るにはもうちょっとうまく写真を撮らないと無理でした。そのうち挑戦します。

他にも、これ太神宮さんじゃないのかなあ?と思う灯籠を見かけることがあるので、また見つけたら追記します。
普段あまり気にせずに通り過ぎてしまう石造物ですが、彫られた文字はその土地の歴史を伝えてくれるなあと思います。こうやって一人一人の名前を見ることで、この地に生きていた人々の存在を少し身近に感じることができました。藩士はある程度、史料に名前が残っているのですが、町民や農民のほうがはるかに多かったわけで、それらの人々の生活ぶりに思いを馳せたりして。市場などは村方で農民の居住地で、歩いてみると古くからありそうな大きなお屋敷が多くて、豪農だったんだろうなと想像が膨らみます。ちなみに小泉藩の人口は、幕末時点で下の通りでした。これは藩制一覧※に掲載されています。
※藩制一覧・・・明治初年に太政官から各藩に対して藩の草高・税目・税額・人口・戸数・社寺数の調査を命じたことに対し、上申があった281藩からのものをまとめた一覧。昭和3年に書籍として出版。
小泉藩(藩制一覧より)
石 高 :1万1202石6斗1升7号
総戸数 :2109戸(知事の戸籍1戸は計上せず)
総人口 :9223人 内 男4564人+女4659人(知事1人並びに家族4人合計5人は計上せず)
士族戸数:165戸
士族人口:680人 内 男318人+女362人
卒族戸数:91戸
卒族人口:288人 内 男154人+女134人
平民戸数:1473戸
平民人口:6841人 内 男3410人+女3431人
寺 院 :57ヶ寺 僧66人
尼 戸数:3戸 尼11人
ほか
士族とは士分(騎士と徒士)を指し元藩士のこと、卒族とは足軽や同心などを指します。(明治維新以降定められた分類)藩士については今後少しずつ記事にしてみようと考えています。
up感謝。太神宮は見かけても何かな?でしたので、詳しく教えて頂きありがとうございます。また藩士についても楽しみにしております。
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コメントありがとうございます。
これを調べて以来、各地で石に彫られた銘を読む癖がついてしまいました。大概は設置年が記されているので、歴史を感じられるんですよ。
藩士については、幕末の名簿は確認済みなのですが、テーマが大きすぎるのでどう書くか、ボチボチとやってみます。
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