藩札とは、江戸時代に1万石以上の領地を持つ大名が領地内での通用を幕府から許可された紙幣で、金貨や銀貨では使い勝手が良くないことから普及したようです。
ネットオークションで見かけて、ついつい買ってしまいました。宝暦10年(1760年)の小泉藩・銀一匁藩札です。画像で見ていた段階では一筆箋位のサイズをイメージしていたのですが、いざ届いて手に持ってみると思いのほか小さいです。縦15.3cm×横4.5cm。考えてみると今の紙幣のように折りたたみ財布に入れるのでは無いでしょうし、これ位のサイズが使いやすかったのでしょうか。ペラペラではなく厚みはしっかりしています。
大黒天や亀、龍など縁起の良い絵柄です。もしかすると龍は宝暦十庚辰(かのえたつ)歳、という年にちなんでいるのかもしれないですね。

藩札についての予備知識が全く無かったので、京都教育大学「おかね」の歴史とデザインを見つけて色々と知ることができました。画像右の「銀壱匁」と金額が記されている上の部分に壺のようなのが1個描かれていて、オークションをいくつか見ている時に「一」の時に1個、「五」の時に5個描いてあったので、何だろうと思っていたのですが、これは如意宝珠という仏教関連の絵だそうで、金額の数字が読めない(識字率が高いと言われた中世日本でも、文字に慣れない人が多かった)から、記号として記されたものだそうです。
この解説で、「金1両=銀50匁=4000文」1文はざっくり10円のイメージということから、銀一匁は800円程度だったのかな?とわかりました。
国分研のサイトに掲載されている日本実業史博物館旧蔵古紙幣目録によると、全国津々浦々の藩札をはじめとした古紙幣のコレクションには大名札として小泉藩のものも収蔵されているようです。私が手にした宝暦10年のもの以外には明治期の銭札しか記載が無いので(泉州の領地のものは除く)、この宝暦10年の発行数が多かったのだろうかと思ったりしましたが、発行自体が他の年には無かったのかもしれず、もうちょっと調べてみたいです。全国法令として宝永4年(1707年)に札遣い停止令が発され、藩札や私札の発行が禁じられたのち、享保15年(1730年)に解禁されるや200藩以上で金銀銭札が発行されたらしいので、ちょっとしたブームだったのかもしれないですね。
ここまで書いたのち、大和紙幣図史 (柳沢文庫: 1981年発行)という書籍があることを知ったので図書館で借りてきました。高価な書物を借りられる地元の図書館はありがたいです。

まず見て、びっくりするほどのすごい研究書です。著者の大鎌淳正氏は大和郡山市の古銭家ということですが、大和国の全藩札、旗本札、寺社札、町村札、商人札、鉱山札、奈良府札など広く収集、研究されていて、小泉藩藩札についての記述も13ページにわたり図とともに解説されていました。
「大日本貨幣史」に小泉藩ノ札は其ノ始メ詳ナラズ
と紹介されているように、宝暦10年の藩札以前に発行されたものは発行年月の記載がないものがあったようで、札所は3名(豊嶋五郎兵衛・伊谷朝右衛門・奈良屋忠太)の名が書かれています。宝暦10年のものは1名(奈良屋忠太)のみになっています。
デザインについても解説があり、
おもて
1段目は大黒天、2段目は霊亀、3段目は宝珠、4段目は銘と銀目、5段目は麒麟
4段目の銘は
阿暏一物大イニ貨殖ヲ益シ
農ニオイテ商ニオイテ此焉ンゾ斯ヲ棄テン
うら
1段目和州小泉、2段目神農図、
3段目中央朱印は「千歳不易」
左右の銘は
交易權ヲ待タズシテ足ル 來往勞裝ナクシテ可ナリ節儉ノ政、不易ノ器ナリ 千ノ金子 之ヲ貨ト况ンヤ編戸ノ民ニ乎ヲヤ
札所は小泉領八箇村の大庄屋格であったと思しき奈良屋忠太1名の記載
※八箇村は小南、田中、西、満願寺、小林、池内、小泉、筒井 とされています。
詳細は著者もわからないこととして、郡山藩士が書き残した書に「宝暦13未年4月11日、材木町番條屋庄兵衛 忠三郎 小泉銀札の件ニ付 公訴之事」とあり、宝暦13年(1763年)に、この小泉藩札に関して何か事件があったようだと記述されています。
「大和紙幣図史」には明治維新時の藩札処理についてもまとめられていますが、結構ボリュームがあるので、またそのうち追記します。
約260年前の1枚の藩札をきっかけに新たに知ることもあり、やはりこれからも地道に調べて行こうと思います。