小泉藩の藩士を調べるには

2026年の大河ドラマ主人公が豊臣秀長ということで、郡山にはこれから大河ドラマ館が出来るでしょうし、賑わいそうですね。番組終わりの紀行でお城の口餅や大納言塚、春岳院とか紹介されるのでしょうか。金魚以外で有名になってもらえそうで市民としては嬉しい限りです。現存天守は無いですが、説によると郡山城→伏見城→二条城→淀城と移築された可能性もあるようで、いつか解明されるといいですね。大河については「また戦国」という声も聞きますけど、今の中高生位だと豊臣ストーリーは新鮮に感じるだろうし、農民からのサクセスストーリーはきっとワクワクするんじゃないでしょうか。秀長は優秀な人だったであろうことは知られていますが、お金に細かい一面もあったとか。農民出身なのだし、そりゃそうでしょうとも思います。そして三好長慶や松永久秀、筒井順慶、藤堂高虎あたりはしっかり描かれて欲しいです。以前書いたように、「豊臣秀長の家老である羽田長門守が、小泉氏転出後の小泉の地に天正~文禄(1570~1590)頃、4万8000石で館を構えました(大和郡山市史本編P.365参照)」なので、小泉のことも少し位は出ないかなあと期待します。

さて、小泉藩士の後裔の方などが、ご先祖を調べていてこちらのサイトを見て頂くケースがあるようなので、個人名が掲載されている資料を一覧整理してみました。私自身は藩士の個人名リストを少しずつ作ってみているのですが、なかなか進まず、また、出来たところで公開するのもいかがなものかと悩んでしまっています。

ありがたいことに、江戸時代の分限帳は読み下し、活字化して大和郡山市史・資料集に掲載されているので、かなり調べやすくなっています。また、最近では奈良県立図書情報舘の電子版ライブラリーで多くを閲覧できるようになったので助かります。私はコロナ流行期間中にせっせと通い、現物を撮影させて頂いたのですが、貴重な古書を閲覧できることはありがたいことでした。虫食いも多くて触れるのにかなり気を遣いました。おそらくその頃以降デジタル化を進められたのか、今は通常では現物閲覧はできないようです。

下の一覧表のうち、私自身がコピーや画像の入手、または現物などで内容確認できていないのは「分限帳 天保八年」のみです。他に細かく一人二人の名が載っているものもありましたが、ある程度の人数がわかるとなるとこれ位かなと思います。小藩ながら幕末~廃藩頃の藩士は士分のみならず卒までわかるので調べ甲斐がありますね。名字から、何となくあの同級生のご先祖様かな、違うかな、など想像するのも面白いです。今後、他に見つけることができれば追記します。

西暦和暦資料
1658万治1年分限帳 万治元年改 (大和郡山市史)
1661寛文1年分限帳 寛文元年改 (大和郡山市史)
1666寛文6年分限帳 寛文六年改 (大和郡山市史)
1671寛文11年分限帳 寛文十一年改 (大和郡山市史)
1673延宝1年分限帳 延宝元年改 (大和郡山市史)
1677延宝5年分限帳 延宝五年改 (大和郡山市史)
1681天和1年分限帳 天和元年改 (大和郡山市史)
1685貞享2年分限帳 貞享弐年改 (大和郡山市史)
1693元禄6年分限帳 元禄六年改 (大和郡山市史)
1698元禄11年分限帳 元禄十一年改 (大和郡山市史)
1702元禄15年分限帳 元禄十五年午改 (大和郡山市史)
1706宝永3年分限帳 宝永三年戌改 (大和郡山市史)
1711正徳1年分限帳 正徳元年卯改 (大和郡山市史)
1716享保1年分限帳 享保元年申改 (大和郡山市史)
1721享保6年分限帳 享保六年丑改 (大和郡山市史)
1726享保11年分限帳 享保十一年午改 (大和郡山市史)
1731享保16年分限帳 享保十六年亥改 (大和郡山市史)
1735享保20年分限帳 享保二十年
1736元文1年分限帳 元文元年辰改 (大和郡山市史)
1741寛保1年分限帳 寛保元年酉改 (大和郡山市史)
1744延享1年分限帳 延享元年子改 (大和郡山市史)
1748寛延1年分限帳 寛延元年辰改 (大和郡山市史)
1751宝暦1年分限帳 宝暦元年未改 (大和郡山市史)
1756宝暦6年分限帳 宝暦六年子改 (大和郡山市史)
1760宝暦10年分限帳 宝暦十年辰改 (大和郡山市史)
1837天保8年分限帳 天保八年
1845弘化2年分限帳 弘化二年
1848嘉永1年分限帳 嘉永元年
1858安政5年分限帳 安政五年
1871明治4年元小泉県諸願伺届書類 明治四年 庶務課 旧県掛 兵士解体御届 
(リンク先P.69)
1871明治4年旧知事士族卒禄帳
(リンク先P.201)
1871明治4年卒履歴表
(リンク先P.305)
1872明治5年士族履歴表 元小泉県 明治2年11⽉から明治5年2⽉までの元⼩泉県⼠族の履歴書
1872明治5年壬申冬季分元小泉方貫属家禄人名帳
(リンク先P.84)
1875明治8年明治七年二月ヨリ八年五月ニ至ル 旧小泉県之部 家禄奉還願 戸籍掛
1875明治8年明治八年奈良県史料 官員履歴簿 ※デジタル化はされていません
1930昭和5年片桐といふ處 ※デジタル化はされていません

小泉藩の藩札

藩札とは、江戸時代に1万石以上の領地を持つ大名が領地内での通用を幕府から許可された紙幣で、金貨や銀貨では使い勝手が良くないことから普及したようです。
 

ネットオークションで見かけて、ついつい買ってしまいました。宝暦10年(1760年)の小泉藩・銀一匁藩札です。画像で見ていた段階では一筆箋位のサイズをイメージしていたのですが、いざ届いて手に持ってみると思いのほか小さいです。縦15.3cm×横4.5cm。考えてみると今の紙幣のように折りたたみ財布に入れるのでは無いでしょうし、これ位のサイズが使いやすかったのでしょうか。ペラペラではなく厚みはしっかりしています。
大黒天や亀、龍など縁起の良い絵柄です。もしかすると龍は宝暦十庚辰(かのえたつ)歳、という年にちなんでいるのかもしれないですね。

藩札についての予備知識が全く無かったので、京都教育大学「おかね」の歴史とデザインを見つけて色々と知ることができました。画像右の「銀壱匁」と金額が記されている上の部分に壺のようなのが1個描かれていて、オークションをいくつか見ている時に「一」の時に1個、「五」の時に5個描いてあったので、何だろうと思っていたのですが、これは如意宝珠という仏教関連の絵だそうで、金額の数字が読めない(識字率が高いと言われた中世日本でも、文字に慣れない人が多かった)から、記号として記されたものだそうです。
この解説で、「金1両=銀50匁=4000文」1文はざっくり10円のイメージということから、銀一匁は800円程度だったのかな?とわかりました。

国分研のサイトに掲載されている日本実業史博物館旧蔵古紙幣目録によると、全国津々浦々の藩札をはじめとした古紙幣のコレクションには大名札として小泉藩のものも収蔵されているようです。私が手にした宝暦10年のもの以外には明治期の銭札しか記載が無いので(泉州の領地のものは除く)、この宝暦10年の発行数が多かったのだろうかと思ったりしましたが、発行自体が他の年には無かったのかもしれず、もうちょっと調べてみたいです。全国法令として宝永4年(1707年)に札遣い停止令が発され、藩札や私札の発行が禁じられたのち、享保15年(1730年)に解禁されるや200藩以上で金銀銭札が発行されたらしいので、ちょっとしたブームだったのかもしれないですね。
 

ここまで書いたのち、大和紙幣図史 (柳沢文庫: 1981年発行)という書籍があることを知ったので図書館で借りてきました。高価な書物を借りられる地元の図書館はありがたいです。


まず見て、びっくりするほどのすごい研究書です。著者の大鎌淳正氏は大和郡山市の古銭家ということですが、大和国の全藩札、旗本札、寺社札、町村札、商人札、鉱山札、奈良府札など広く収集、研究されていて、小泉藩藩札についての記述も13ページにわたり図とともに解説されていました。

「大日本貨幣史」に小泉藩ノ札は其ノ始メ詳ナラズ

と紹介されているように、宝暦10年の藩札以前に発行されたものは発行年月の記載がないものがあったようで、札所は3名(豊嶋五郎兵衛・伊谷朝右衛門・奈良屋忠太)の名が書かれています。宝暦10年のものは1名(奈良屋忠太)のみになっています。

デザインについても解説があり、
おもて
1段目は大黒天、2段目は霊亀、3段目は宝珠、4段目は銘と銀目、5段目は麒麟
4段目の銘は
阿暏一物大イニ貨殖ヲ益シ
農ニオイテ商ニオイテ此焉ンゾ斯ヲ棄テン

うら
1段目和州小泉、2段目神農図、
3段目中央朱印は「千歳不易」
左右の銘は
交易權ヲ待タズシテ足ル 來往勞裝ナクシテ可ナリ節儉ノ政、不易ノ器ナリ 千ノ金子 之ヲ貨ト况ンヤ編戸ノ民ニ乎ヲヤ
札所は小泉領八箇村の大庄屋格であったと思しき奈良屋忠太1名の記載
※八箇村は小南、田中、西、満願寺、小林、池内、小泉、筒井 とされています。

詳細は著者もわからないこととして、郡山藩士が書き残した書に「宝暦13未年4月11日、材木町番條屋庄兵衛 忠三郎 小泉銀札の件ニ付 公訴之事」とあり、宝暦13年(1763年)に、この小泉藩札に関して何か事件があったようだと記述されています。

「大和紙幣図史」には明治維新時の藩札処理についてもまとめられていますが、結構ボリュームがあるので、またそのうち追記します。

約260年前の1枚の藩札をきっかけに新たに知ることもあり、やはりこれからも地道に調べて行こうと思います。
 

元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図

先月の大和郡山市広報誌つながり(2023年3月15日号)に、市内の自治会から古地図が寄贈されたという記事がありました。さらに、つながり4月1日号の「市長てくてく城下町」コラムによると絵図は傷みがあり、修復の上、原寸大複製図を市役所ロビーに展示されているとのことです。元禄3年(1690年)に作成されたもので、富雄川の流路や小泉陣屋が克明に描かれているらしいので、これは見なければと行ってきました。
※展示は3月15日から4月14日まで。ロビー展示のため、土日は見ることができません。

大和郡山市役所ロビーに展示された「元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図(控)の複製」を撮影したもの

寸法2405mm×1700mmとかなり大きく、克明に描かれた絵図に見入ってしまいました。修復技術のおかげなのでしょう、傷みの程度は破れの部分しか分からない位です。

大和郡山市役所ロビーに展示された、まちづくり戦略課文化財保存活用係による解説パネルを撮影したもの

 

上記解説書と吊り下げられていた配布用資料によると、絵図は富雄川から農業用水を引き込む村々の争い(水論)が和解した時に描かれたもので、関係各村の庄屋や年寄など22人の署名がされています。署名は裏面に書かれているようで、左上にうっすらと反転した文字が見えます。押印が無いため、発見された絵図は控えで原本は他にあると考えられるそうです。

「井堰」とは、水を他のところに引くため川水をせき止めるところ。つまり川のなかで段になっているところのことなのかなと思います。

また「水論」について調べると、次のような説明がありました。

干ばつのときだけ水論が起こるわけではない。中世水論の原因は
(1)番水の際の用水配分の順序や時間についてのトラブル
(2)灌漑用水使用料等の授受をめぐってのトラブル
(3)旧来の井堰の改修や新しい井堰を作ったため下流の井堰などに悪影響をもたらした場合
がおもなものであった。最も多かったのは(3)であり、中世の相論で〈新井〉を立てたといって問題にされているものの大部分は、他の灌漑施設に甚大な被害を与える灌漑施設の新設を行った場合なのである(平凡社世界大百科事典

「井堰」という言葉を聞いたことはあっても水利組合の関連かなぁ?、程度にしか知らなかったので、ちょっと勉強になりました。

井堰の名称が、「三ヶ井」「十ヶ井」「七ヶ井」と書かれています。「三ヶ井」「十ヶ井」はいまの城町のあたりから新木、田中、外川に引水した堰と、小南、外川、満願寺、田中、池内、豊浦、本庄、杉、筒井まで広範囲に引水した堰、「七ヶ井」は筒井、小林、今国府、椎木に引水した堰、と説明されていました。そこでハッとしたのが、富雄川沿いのスーパープライスカットの少し北側の川沿いに設置されている記念碑です。七個郷用水路改修記念碑と書いてあり、ここがその七ヶ井だと納得しました。記念碑の冒頭に書かれている寛文元年は1661年で、今回の元禄絵図の30年前の絵図にも3つの井堰が描かれているとされています。遅くとも鎌倉時代頃には井堰は設置されていたらしいので、富雄川は私たちの町の歴史とともにあったということをあらためて感じました。

 

 

さて、一番興味のあった小泉陣屋部分について、アップで撮影してきました。陣屋部分は「小泉御屋敷」として陣屋全体をひとまとめにして描かれています。
元禄3年は三代片桐貞房の時代で、二代目である貞昌(石州)が建てた慈光院は出来ていた筈ですが絵図には記載がありません。また、延宝元年(1673年)に出来上がったと旧記に書かれている内堀も、この絵図には描かれていないので、省略されているのか、あるいは詳細がわからなかった、書いてはいけなかった、などと想像してみたり。小泉神社のある場所には小さく「宮」と書かれているので、水論に関すること以外は省略しているのかもしれません。赤い線は道路であり、町方の道路事情がよくわかりますね。町方は「小泉町」村方は「小泉村」と区別して書き込まれているのも興味深いです。富雄川にかかる橋は、やはり慈光院の東側だけです。

※2023年7月2日追記
上記の「陣屋内の詳細が描かれていない件」について市のまちづくり戦略課文化財保存活用係様に問合せをしました。やはり、今回の水論に直接関係がないため絵師は詳しく書かなかったということだとご回答いただきました。

 

大和郡山市役所ロビーに展示された「元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図(控)の複製」を撮影した一部分を拡大し回転したもの

この、陣屋部分の図を見て、大和郡山市史p.365に掲載されている陣屋図と同じだと気づきました。市史を読んでいた時に、この図はどこからの引用なのかがわからず元史料に当たることができなかったので気になっていました。なんだか霧が晴れたような気分です。

大和郡山市史P365、第5章小泉藩に挿入された図のコピー

今回展示されていた絵図は、争いのあった3つの井堰全体を1枚の絵図に描かれていることや、各村に引水した溜池も克明に描かれていたり、小泉陣屋もまた克明に描かれていることが大変貴重であると解説されていましたが、3つの井堰や水路に関する絵図は関係各村にかなりの数が残っているとも書かれていて、そういう史料を公民館などで見ることができればいいのになあと思いました。

小泉の太神宮常夜燈(2)

小泉にある他の太神宮常夜燈も2基紹介します。1基は慈光院の池のほとり、富雄川沿いに他の石碑と一緒に設置されている北之町灯籠です。小泉の太神宮常夜燈(1)で書いた嘉永5年のものより20年古く、天保3年壬辰9月と記されています(天保3年は1832年)。おそらく何かのタイミングで移設されたような雰囲気ですね。石碑広場みたいになっていて、奥にあるのが「忠魂碑」と記され陸軍の軍人名、左側のものは「殉国之碑」とあり数多くの個人名が刻まれています。太平洋戦争の犠牲者のようです。

こちらの太神宮常夜燈も頑張って人名を解読してみましたが、かなり薄くなっていて難しいです。右側(北面)を見ることができなくて、葉が落ちる冬に狙ってみたのですが、読み取ることができませんでした。

北之町 太神宮常夜燈 天保3年(1932年)

 

【上段】
北之町
【下段】
〇〇〇〇〇〇
池内村九兵衛
小南村源左衛門
同村 太右衛門
吉屋善兵衛
同 馬蔵
綿屋源三郎
伊谷浅右衛門
〇本屋半兵衛
加勢屋藤兵衛
堀内徳(?)兵衛
西村〇〇〇
田辺与左衛門
小西八左衛門
釜下庄兵衛
豊中村勝五郎

 

【上段】
〇〇〇〇〇〇
〇〇理三郎
〇出源三郎
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
 不明

【下段】
池上村甚〇〇〇
北出村〇大〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇庄右衛門
〇〇屋〇七
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇田屋半(平?)兵衛
世話人
〇屋源蔵
〇〇屋〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇

前面、側面に「豊中村」「北出村」「池上村」(いずれも現在の泉大津市)の人物名が入っていて、そういえば小泉藩の支配地に泉大津があったことを思い出しました。泉大津市のサイトにもそのことが書かれています(※リンク先が改修されたようで、こちらのPDF6ページ目に書かれています)。支配地についても今後書いてみようと思います。この灯籠の見えている前面(東面)と南面に刻まれている人物名は、屋号や村名が多く、城下町の町人や農民なのかな?と想像します。灯籠上部の側面には「御領主御武運長久」と、領主である片桐氏(この時代は8代片桐貞信)の武運長久を祈った言葉が記されています。

次の1基は、市場の細い道沿いに残っているものです。正面に「村中安全」と記され、明治13年12月に建てられたことが裏面に記されていました。こちらは汚れがひどく、名前を読み取るにはもうちょっとうまく写真を撮らないと無理でした。そのうち挑戦します。

建物に食い込んだ状態で建っているので、裏面を見るのはちょっと大変でした。

他にも、これ太神宮さんじゃないのかなあ?と思う灯籠を見かけることがあるので、また見つけたら追記します。

普段あまり気にせずに通り過ぎてしまう石造物ですが、彫られた文字はその土地の歴史を伝えてくれるなあと思います。こうやって一人一人の名前を見ることで、この地に生きていた人々の存在を少し身近に感じることができました。藩士はある程度、史料に名前が残っているのですが、町民や農民のほうがはるかに多かったわけで、それらの人々の生活ぶりに思いを馳せたりして。市場などは村方で農民の居住地で、歩いてみると古くからありそうな大きなお屋敷が多くて、豪農だったんだろうなと想像が膨らみます。ちなみに小泉藩の人口は、幕末時点で下の通りでした。これは藩制一覧に掲載されています。


※藩制一覧・・・明治初年に太政官から各藩に対して藩の草高・税目・税額・人口・戸数・社寺数の調査を命じたことに対し、上申があった281藩からのものをまとめた一覧。昭和3年に書籍として出版。

小泉藩(藩制一覧より)
石 高 :1万1202石6斗1升7号
総戸数 :2109戸(知事の戸籍1戸は計上せず)
総人口 :9223人 内 男4564人+女4659人(知事1人並びに家族4人合計5人は計上せず)
士族戸数:165戸
士族人口:680人 内 男318人+女362人
卒族戸数:91戸
卒族人口:288人 内 男154人+女134人
平民戸数:1473戸
平民人口:6841人 内 男3410人+女3431人
寺 院 :57ヶ寺 僧66人
尼 戸数:3戸 尼11人
ほか

士族とは士分(騎士と徒士)を指し元藩士のこと、卒族とは足軽や同心などを指します。(明治維新以降定められた分類)藩士については今後少しずつ記事にしてみようと考えています。

小泉の太神宮常夜燈(1)

小泉の城下町(2)で触れた高灯籠について、もう少し書きます。

太神宮と正面に記されている、奈良県内にたくさんある近世石造物です。伊勢信仰の奉納物とされており、県内で確認されているものだけで何百基もの太神宮常夜燈があるとのこと(「太」ではなく「大」神宮と表記しているものもあります)。太神宮常夜燈についてはよく知らなかったのですが、全国に分布されているとはいえ、その殆どは三重県と奈良県に集中しているそうです。大和郡山市内でわかりやすいのは奈良口(秋篠川を挟んだ九条公園の南側)の常夜燈で、灯籠の脇に「伊勢神宮遥拝所」と記した新しい石碑が設置されています。郡山のものも、小泉のこれも、奈良街道沿いにあることから、参宮の道しるべでもあったと言えそうです。この前の道から富雄川を渡り南東に行くと大和小泉駅へ着きますが、江戸時代には橋は架かっておらず渡しであったらしいので、もしかすると現在の道路上にあったものを移設したのかもしれません。
※太神宮常夜燈については、荒井留五郎氏著 「奈良県の太神宮常夜燈」「東海近畿の参宮常夜燈」を参考にしました。

小泉橋西にある大神宮灯籠

近づいてみると大小2基あり、この形状は宮立形というものです。

大きいほうは
正面(南面)に「太神宮」
東側に「嘉永五年歳次壬子春三月」
西側に「御領主御武運長久」
と彫られています。嘉永5年は1852年、明治元年が1868年なので、幕末近い年代です。
小さいほうは
正面(南面)に「常燈」」
北側に「大正三年」「3人の人名」
東側にも何か彫られていますが読めませんでした。

 

3段の台石にある人物名は、苔や汚れで読めないものもありますが、かなり多く判読できるので、書き出してみることにしました。個人名ですが、誰でも見られる場所に設置されていることと、この時代の人はすべて故人であろうことからテキスト化しても大丈夫かと思いました。
全体をみたところ、上から1段目は藩士の名、2段目は屋号があるので商人、3段目は名字がない人物が多く、町人や庄屋筆頭に農民なのかもしれません。1段目が藩士だとわかるのは、別の史料で確認できる藩士と合致する名が殆どだからです。

【上段】

講中
大河原 可敬
原田 廣馬
田嶋 清右衛門
丙?

【中段】 講中  北之町 不動院 村戸 角兵衛    七郎兵ヱ 芋屋 甚二郎    清八    庄二郎    伊八    吉三郎 下駄屋 儀兵ヱ  仝  勘七     佐七     八十一     萬七

【下段】

講中
富本 長右ヱ門
   佐兵衛
   多右ヱ門
   又二郎
   惣兵ヱ
   揔七
   善兵ヱ
   新右ヱ門
   庄右ヱ門
   甚二郎
   新六
   甚八
   弥四郎
   宇之松
   久二郎
   八十七
北之町
   平兵ヱ
   政七
   長八

南面は比較的読み取りやすいです。汚れが少なく、おそらくすべての人名を書き起こせたのではないでしょうか。
中段の「世話人」にある屋号のお家のかたが、今も時折雑草を取ったり掃除をしてくださっている姿をお見掛けします。おそらくボランティアでしょうし、ありがたいですね。

【上段】

杉原 健之進
前川 源五兵ヱ
波多野 秀二郎
浦野 官次
篠田 甚右ヱ門
嶋田 造酒允
野澤 左仲
山本 銀大夫
西 宗兵衛
川口 又太郎
好川 又三郎
矢追 喜蔵
北尾 専左ヱ門
山本 博
荒川 為七
川村 亀太郎
三浦 久太郎
北畠 弥三郎

【中段】  世話人 村井 又五郎  中之町 萩原屋 又兵衛  南之町 秋田屋 藤兵ヱ  北之町 菓子屋 源蔵 番場屋 喜兵ヱ  出張 和泉屋 佐兵ヱ 米屋 善六    吉三郎 米屋 庄三郎  市場    甚七     七 綿屋 源三郎  仝 伊三郎    三郎兵ヱ    茂平治

【下段】  出張講中 仲澤 彦二郎 竜屋 忠二郎    新七    藤兵ヱ    久兵衛 戎屋 徳兵ヱ    源三郎    源六    庄五郎    伊兵ヱ    勘三郎    新八    又吉    新造    長四郎    市三郎    太蔵    権三郎    庄二郎    岩枩    好松    善兵ヱ    弥八

西面は残念ながら殆ど読めませんでした。苔というより藻のような汚れと雨だれ汚れで、できれば早いうちに拓本を取るなどしない限り、判読は難しくなる一方な気がします。

【上段】 河埜 〇〇 〇〇 〇〇 佐〇 〇〇 宮〇 〇〇 森本 〇〇 山村 〇平 水田 久治 谷田 〇〇 上原 〇〇

【中段】

【下段】 〇〇 久兵ヱ 〇〇講中    伊兵ヱ    甚内

伊勢参り(お蔭参り)は言葉として知ってはいても、どの位の熱量だったのかは想像がつきませんでした。たまたま6月にNHKでおかげ参りの特集番組があり、伊勢講についてもイメージができるようになったので、小泉藩でも講が結ばれていたことに思いを馳せることができました。ここに刻まれた人々は、身分によらず伊勢講を通じて親しくしていたのかな、と感じます。

薙刀池・御庭池

しばらく仕事が立て込んでおり、投稿できませんでした。次に書こうとしていたテーマが大きすぎてまとまらないので、気分を変えて撮影した池の写真をアップします。このあたりをのんびりと散歩される地元の人をよく見かけます。

「なぎなた池」はその名のとおり薙刀の形をしているからでしょう。羽田長門守(戦国時代郡山城城主だった豊臣秀長の家老)がこの地を治めた時代に外堀として造ったものと伝わっています。羽田長門守は実際には郡山に住んでいたとのこと。その後片桐氏の小泉藩時代、このあたりは上級中級の藩士邸宅が軒を連ねていました。廃藩後は住む人も減ったそうですが、昭和10年頃、藩主末裔と姻戚となった藩出身のM氏が古材を集めて自邸に模擬など建築されました。そのおかげで今も池の対岸からは往時の雰囲気が感じられる風景が残っています。個人宅としてお住まいですので全景は遠慮し、写真はお庭池側との間から北西向きに撮っています。

<春> ほとりの桜が散ると花筏になり風情があります
<夏> かなり藻が繁殖して緑の池に
<冬> 石の竪樋が露出 整然と積まれた石垣も見えます

 

振り返って東側のお庭池を。藩主邸宅の南側に広がる池なのでお庭池と言うのでしょう。これもまた、薙刀池と同じころ、堀として造成されたそうです。

<夏> ジャングルみたいですね かなり木や草が茂ります
<冬> ちょっと幻想的? 水利組合の方々が水を抜いた池底で焚火をされています 

 

地元でも、城跡(陣屋跡)がどのあたりなのか、といったことや、この2つの池が堀だったということまであまり意識されていない気がします。片桐西小学校の校歌に「片桐の城のあと ひらけゆく あらたな郷土」という詞がありますが、あらたな郷土になっても歴史が忘れ去られないよう願います。

小泉の城下町(2)

小泉の城下町(1)で描いた町方図は昭和10年頃の様子でした。国土地理院のサイトで公開されている昭和23年の航空写真に重ねます。地形に殆ど変化は無いので現在の景色からでも想像しやすいです。

元の航空写真も下に貼っておきます。昭和23年には片桐西小学校が建っていませんし、慈光院の南側、しまむらやダイソーに向かう西向き上り坂の太い道路もまだ整備されていません。コーナンの前から斑鳩へ続く道はまだありません。コーナンから大和小泉駅へ続く道はできていますが、当時は「新道」と呼ばれていたそうです。そういえば、現在の片桐中学校のある場所は昭和50年代中頃までは池でした。埋め立てて学校を建てられました。

では各所で現在の写真を撮ってきましたので、南から見ていきます。

①町方入口あたり
 出張(でばり)と言われた地域です。左に見えている石の道標には西へ行くと法起寺と法輪寺へ続くと書かれています。建てられた年月日は読み取れませんが、奈良街道を竜田へ向かうか天理方面へ向かうかの分かれ道だそうです。
 ※参考:南都銀行地域事業創造部サイト

②小泉神社鳥居前
 ここで右折れして東に向かうと本町です。小泉神社の鳥居あたりまでは平らな道ですが、その先は上り坂になっており、この付近に陣屋郭内の南門がありました。

③本町桝形(鍵曲・クランク)
 城下町特有の鍵型に曲がった道路です。 街道を屈曲させることで外敵の侵入を妨げる防御装置としての役割がありました。

   

④高灯籠
 ある程度の年齢以上の地元のかたは、この囲いの前に「たこ焼き店」があったことを記憶されているのではないでしょうか。(コンクリートブロックの土台がその形跡)
 この灯籠は江戸時代末期嘉永5年(1852)に有志により建てられたもので前面中央に「太神宮」その下に「月参講」と彫られています。つまり、伊勢講の月参り場所(遥拝所)だったのでしょう。奈良街道は、当時熱狂的だったと言われるお伊勢参り参拝者の通り道でした。このような太神宮さん灯籠は奈良盆地各所にみられます。

⑤庚申堂(尭然山金輪院)
 庚申さん、と呼ばれ親しまれています。1659(万治2)年、片桐2代目藩主貞昌(石州)の家臣で茶人でもある藤林宗源が創建しました。「一国一宇」大和国にひとつだけの庚申信仰の総道場ということで門前の灯籠は④と同年の嘉永5年造立ですが「郡山御膳講」と記されており、大和の国の大藩であった郡山藩から寄進されたもののようです。講中(講を作っていた人々)の名前も、柳町や岡町、材木町などです。小泉藩だけの庚申さんではなかったことがわかります。

⑥庚申堂裏門
 この門は陣屋裏門が移築されたものと伝えられています。ただ、その裏門がどこにあったのかは史料がなく、瓦に片桐家の家紋「片桐違い矢(かたぎりちがいや)」がついているので、そうであることに思いを馳せることができるのみです。

⑦陣屋追手門への入り口
何も痕跡はありませんが、直進すると町方の北之町、左に折れると追手門に至る丁字路です。
道幅が狭い住宅街で車の通りは多くないですが、ここでの離合は譲り合いの気持ちが必要です。
 ※離合というのは西日本に多い表現だそうで、車のすれ違いのことです。

⑦ 陣屋追手門への入り口
ここは左右の道が低くなっています。水路と垂直交差するのでかつては左右とも堀か水路だったのではないでしょうか。

⑧追手門跡地
右側は公民館ですが一昔前は小泉保育所でした。このあたりに追手門があり、現在は小泉神社に移築され山門として残ります。門の横手は土塁だったそうです。藩の牢がここにありました。
この坂を上り始める左手に「親子塚」があります。

⑧親子塚(追手門跡西側)
―ある娘が若い武士との間に男の子を産んで亡くなった。その子村川兵蔵の養父、村川兵大夫は明石藩士瀬川藤太郎にあやまって斬られたのだが、1613(慶長18)年、この大和小泉において兵蔵が出会った藤太郎こそが実父だと判った。藤太郎は「生みの親より育ての親。私を討ちなさい」と告げ切腹。兵蔵も後を追って自害した。藤太郎39歳、兵蔵17歳。―
この親子を弔う塚です。写真を撮った日の天気が良く、フレアが出てしまいました。
※物語はこのリンク先で読むことができます(くずし字なので私は少しずつ頑張って読んでいます)。【和州小泉敵討親子塚】(国文学研究資料館)

町を歩くだけでは地形がわかりにくいですが、航空写真を見ると小泉城(陣屋)の城下町のイメージがしやすくなります。これからもいろいろ史料を探してみようと思っています。

旧・片桐中学校

小泉城址(小泉城跡)の変遷(3)にて航空写真で見た旧片桐中学校のことを知りたい、写真が見たいと思っていたところ、卒業生の方からアルバムをお借りすることができました。1958年(昭和33年)のものです。

1958年旧片桐中学校卒業アルバム

アルバムを開くと最初に目に入るのが、石階段の写真です。
拡大して現在の写真と並べてみます。

1958年(昭和33年)
2020年(令和2年)

第七回卒業生記念植樹の碑
石階段を下から望む

 

アルバム写真で右上の建物手前に写っている四角い柱はこの碑で、「第七回卒業生記念植樹」と彫られています。できるだけ同じ角度で階段を撮影したかったのですが、足場が確保できなかったので、ギリギリ近いアングルで撮っています。石階段は途中に平らな部分があり、下側は16段、上は20段あります。卒業アルバムの写真は20段なので、おそらく組み直しはしていないのではないでしょうか。この下にまだ16段あるのだと思われます。今は山茶花の植え込みがあってちょっと通路が狭くなってしまっていますね。

そして、アルバム写真の左上に写っている避雷針?あるいは旗ポール?らしきものを目印にすると、全体像がわかります。

こちらは同じ角度から現在の様子を撮影するとなると個人宅が入りまくってしまう(というより全体像が見渡せる場所がもはやない)ので、小泉城址(小泉城跡)の変遷(3)で掲載した航空写真を参照。赤丸は城跡石碑の場所です。

1961年(昭和36年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

石碑の西側には泉水があり、その西側には3つの建物をつなぐ渡り廊下があったようです。卒業生のお方に伺ったところ、その渡り廊下でつながった3つある建物の北側が職員室だったとか。土俵もあったらしいのですが、どのあたりだったのかは写真からは割り出せませんでした。

小泉藩のことを調べる中で、近い歴史である昭和時代も知ることができ、ありがたく思います。土地の様子や建物は時代とともに変わるものですが、こうやって記録が残っているおかげで地域をより深く理解できました。


※写真を流用するにあたり、卒業アルバムの著作権について調べてみたのですが、その学校に帰属、あるいは人物については肖像権が、とされており、掲載されている風景写真については卒業アルバムという特性上、広く出版されているものではないので著作権はどこにも発生しないようでした。学校自体がもう無く(今の片桐中学校とはつながらない)、学校に確認することも不可能なため、人物の顔がはっきりとわからない写真は使用できると考えました。もしも、問題があることにお気付きの場合はお知らせ頂きますようよろしくお願い致します。

小泉の城下町(1)

 ちょっと時間をかけて、城下町の(陣屋なので城下町と言ってよいのかわかりませんが)雰囲気がわかる図を描いてみました。地元の長老、Y口さんに頂いた昭和10年頃の町図面を元に、農業、勤め人以外の生業を順番に並べています。あいにく北之町(きたんちょう)の町図はなく、現在の「本町」部分が中心ですが、構図はわかるかと思います。北之町にもお店は並んでおり、昭和の中頃まではバスも走っていたとのことです。図を描くにあたっては各戸建屋の面積は考慮せず(できず)、また配置も多少ずれているので現在の住宅地図上に重ねてみても必ずしも現在のお宅に該当する訳ではなく、誤解されないようお願いします(今も商っていらっしゃる場合は明らかにわかるところもあります)。昭和に入ってからの町図ですから、藩があった頃から70年経っており、住民もかなり入れ替わっていると思いますが、町場の道路沿いに店や工房などが並んでいた様子は想像できると思います。

 道路の色が茶色の所が「町方(まちかた)」です。いわゆる城下町。薄茶(ピンク)は郭内の道路です。ここには描ききれませんでしたが、この図の東側には富雄川が流れており、その対岸、今の大和小泉駅に向かうあたりは「村方(むらかた)」といって農家が多く居住する地域でした(現在の字「市場」)。小泉神社から南へ延びる道路付近は「出張(でばり)」と呼びますが、北之町、中之町、本町、よりも後、江戸時代後期に発展し、町方は4町となったようです。

地元の長老Y口さんから頂いた住宅図を元に作成

 随所に鍵型が取り入れられており、見通しがきかない道路の配置を考えると、陣屋とはいえ立派に城下町としての機能を果たしていたことがうかがえます。幕末には郭内に約150人ほどの藩士(武士)が住んでおり、また町方には100戸程度の町屋があったようです。面積はさほど広いわけではなく、町方を南端から北端まで歩いたとしても20分程度でしょう。

 ちなみに、この図には庚申さんのそばに「太鼓倉」があります。秋祭りの布団太鼓(太鼓台)を格納する倉庫の一つが当時はここにありました。地元の人しかわからないかもしれませんが、今も秋祭りにて布団太鼓の小泉神社境内での練り、町内練りまわしがおこなわれています。2020年はCOVID-19(新型コロナ)の影響で中止となりましたが、毎年壮麗なお祭りを見ることができます。最近では担ぎ手が少なくなり大変そうですが、外部から転入された方もどんどん参加下さって、地元の祭りを続けられるといいなと思います。

小泉神社境内に揃った各地区の布団太鼓(大太鼓)。本町のものが最も古く2トンの重量がありますが、地域の方々が担いでお宮さんの階段を上り下りします。各地区の倉庫で保管されています。

続く

小泉城址(小泉城跡)の変遷(3)

少し趣向を変えて、上空から城跡(陣屋跡)を見てみます。国土地理院のサイト「地図・空中写真閲覧サービス」で、日本全国の過去の航空写真を閲覧することができるのです。小泉陣屋本丸付近を何年分かピックアップしてみました。

2008年(平成20年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

わかりやすくするために、現在城址の石碑が建って居る場所に赤丸をつけました。今が2020年なので12年前ですが、多少住宅は増えたり建て替えなどあるにしても、今もさほど変わってはいないようです。ではさらにさかのぼります。

 

 

1979年(昭和54年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

さらに20年前、1979年(昭和54年)です。住宅もまだ多くはなく、空き地や森が多く見えます。お庭池北側はまだ分譲されていません。

 

 

1975年(昭和50年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

4年遡って、1975年(昭和50年)です。更地が多く感じられます。木が茂る前の様子がわかります。石碑付近も土地が露出していますね。私の記憶では石碑の西側は資材置き場として使われていたように思います。軽トラックらしきものも見えます。

 

 

1961年(昭和36年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

更に14年前。この頃は片桐中学校があった時代です。中学校の様子が良くわかります。石碑は昭和26年に建てられたので、写っています。この中学に通っていらした方にお聞きしたところ、この石碑の西側にある楕円形のものは泉水(せんすい:庭園に造った池)だそうです。この後宅地分譲する1970年頃(昭和40年代)の様子を知りたかったのですが、あいにく鮮明な航空写真は見つかりませんでした。

 

 

1948年(昭和23年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

これが探した中で一番古いものでした。小泉城址の石碑は建てられる前なので、おおよその見当をつけて赤丸を書き入れました。片桐中学校は昭和23年に建てられた筈なので、この航空写真は中学校が建つ直前ではないかと思われます。前記事に書いた「ゴム工場」と「片桐神社」らしきものが見えます。以下に再掲します。

1930年(昭和5年)京谷康信氏作画の城址図

昭和23年には住宅も殆どなく、ただただ土地が広がっているような感じです。昭和5年当時は柿の木がよく茂っていたらしいので、その後ゴム工場のオーナーがこの地を購入されたのでしょうか。もしかすると小泉城址の変遷(1)で記した顕彰碑にある人物「吉田亀吉氏」と関係があるのかもれません。斑鳩町の図書館へ行けば何かわかるかもしれないので、またそのうちに調べてみます。

 

最後に、5枚の写真をスライドショーにしたものを掲載します。