元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図

先月の大和郡山市広報誌つながり(2023年3月15日号)に、市内の自治会から古地図が寄贈されたという記事がありました。さらに、つながり4月1日号の「市長てくてく城下町」コラムによると絵図は傷みがあり、修復の上、原寸大複製図を市役所ロビーに展示されているとのことです。元禄3年(1690年)に作成されたもので、富雄川の流路や小泉陣屋が克明に描かれているらしいので、これは見なければと行ってきました。
※展示は3月15日から4月14日まで。ロビー展示のため、土日は見ることができません。

大和郡山市役所ロビーに展示された「元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図(控)の複製」を撮影したもの

寸法2405mm×1700mmとかなり大きく、克明に描かれた絵図に見入ってしまいました。修復技術のおかげなのでしょう、傷みの程度は破れの部分しか分からない位です。

大和郡山市役所ロビーに展示された、まちづくり戦略課文化財保存活用係による解説パネルを撮影したもの

 

上記解説書と吊り下げられていた配布用資料によると、絵図は富雄川から農業用水を引き込む村々の争い(水論)が和解した時に描かれたもので、関係各村の庄屋や年寄など22人の署名がされています。署名は裏面に書かれているようで、左上にうっすらと反転した文字が見えます。押印が無いため、発見された絵図は控えで原本は他にあると考えられるそうです。

「井堰」とは、水を他のところに引くため川水をせき止めるところ。つまり川のなかで段になっているところのことなのかなと思います。

また「水論」について調べると、次のような説明がありました。

干ばつのときだけ水論が起こるわけではない。中世水論の原因は
(1)番水の際の用水配分の順序や時間についてのトラブル
(2)灌漑用水使用料等の授受をめぐってのトラブル
(3)旧来の井堰の改修や新しい井堰を作ったため下流の井堰などに悪影響をもたらした場合
がおもなものであった。最も多かったのは(3)であり、中世の相論で〈新井〉を立てたといって問題にされているものの大部分は、他の灌漑施設に甚大な被害を与える灌漑施設の新設を行った場合なのである(平凡社世界大百科事典

「井堰」という言葉を聞いたことはあっても水利組合の関連かなぁ?、程度にしか知らなかったので、ちょっと勉強になりました。

井堰の名称が、「三ヶ井」「十ヶ井」「七ヶ井」と書かれています。「三ヶ井」「十ヶ井」はいまの城町のあたりから新木、田中、外川に引水した堰と、小南、外川、満願寺、田中、池内、豊浦、本庄、杉、筒井まで広範囲に引水した堰、「七ヶ井」は筒井、小林、今国府、椎木に引水した堰、と説明されていました。そこでハッとしたのが、富雄川沿いのスーパープライスカットの少し北側の川沿いに設置されている記念碑です。七個郷用水路改修記念碑と書いてあり、ここがその七ヶ井だと納得しました。記念碑の冒頭に書かれている寛文元年は1661年で、今回の元禄絵図の30年前の絵図にも3つの井堰が描かれているとされています。遅くとも鎌倉時代頃には井堰は設置されていたらしいので、富雄川は私たちの町の歴史とともにあったということをあらためて感じました。

 

 

さて、一番興味のあった小泉陣屋部分について、アップで撮影してきました。陣屋部分は「小泉御屋敷」として陣屋全体をひとまとめにして描かれています。
元禄3年は三代片桐貞房の時代で、二代目である貞昌(石州)が建てた慈光院は出来ていた筈ですが絵図には記載がありません。また、延宝元年(1673年)に出来上がったと旧記に書かれている内堀も、この絵図には描かれていないので、省略されているのか、あるいは詳細がわからなかった、書いてはいけなかった、などと想像してみたり。小泉神社のある場所には小さく「宮」と書かれているので、水論に関すること以外は省略しているのかもしれません。赤い線は道路であり、町方の道路事情がよくわかりますね。町方は「小泉町」村方は「小泉村」と区別して書き込まれているのも興味深いです。富雄川にかかる橋は、やはり慈光院の東側だけです。

※2023年7月2日追記
上記の「陣屋内の詳細が描かれていない件」について市のまちづくり戦略課文化財保存活用係様に問合せをしました。やはり、今回の水論に直接関係がないため絵師は詳しく書かなかったということだとご回答いただきました。

 

大和郡山市役所ロビーに展示された「元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図(控)の複製」を撮影した一部分を拡大し回転したもの

この、陣屋部分の図を見て、大和郡山市史p.365に掲載されている陣屋図と同じだと気づきました。市史を読んでいた時に、この図はどこからの引用なのかがわからず元史料に当たることができなかったので気になっていました。なんだか霧が晴れたような気分です。

大和郡山市史P365、第5章小泉藩に挿入された図のコピー

今回展示されていた絵図は、争いのあった3つの井堰全体を1枚の絵図に描かれていることや、各村に引水した溜池も克明に描かれていたり、小泉陣屋もまた克明に描かれていることが大変貴重であると解説されていましたが、3つの井堰や水路に関する絵図は関係各村にかなりの数が残っているとも書かれていて、そういう史料を公民館などで見ることができればいいのになあと思いました。

小泉の城下町(2)

小泉の城下町(1)で描いた町方図は昭和10年頃の様子でした。国土地理院のサイトで公開されている昭和23年の航空写真に重ねます。地形に殆ど変化は無いので現在の景色からでも想像しやすいです。

元の航空写真も下に貼っておきます。昭和23年には片桐西小学校が建っていませんし、慈光院の南側、しまむらやダイソーに向かう西向き上り坂の太い道路もまだ整備されていません。コーナンの前から斑鳩へ続く道はまだありません。コーナンから大和小泉駅へ続く道はできていますが、当時は「新道」と呼ばれていたそうです。そういえば、現在の片桐中学校のある場所は昭和50年代中頃までは池でした。埋め立てて学校を建てられました。

では各所で現在の写真を撮ってきましたので、南から見ていきます。

①町方入口あたり
 出張(でばり)と言われた地域です。左に見えている石の道標には西へ行くと法起寺と法輪寺へ続くと書かれています。建てられた年月日は読み取れませんが、奈良街道を竜田へ向かうか天理方面へ向かうかの分かれ道だそうです。
 ※参考:南都銀行地域事業創造部サイト

②小泉神社鳥居前
 ここで右折れして東に向かうと本町です。小泉神社の鳥居あたりまでは平らな道ですが、その先は上り坂になっており、この付近に陣屋郭内の南門がありました。

③本町桝形(鍵曲・クランク)
 城下町特有の鍵型に曲がった道路です。 街道を屈曲させることで外敵の侵入を妨げる防御装置としての役割がありました。

   

④高灯籠
 ある程度の年齢以上の地元のかたは、この囲いの前に「たこ焼き店」があったことを記憶されているのではないでしょうか。(コンクリートブロックの土台がその形跡)
 この灯籠は江戸時代末期嘉永5年(1852)に有志により建てられたもので前面中央に「太神宮」その下に「月参講」と彫られています。つまり、伊勢講の月参り場所(遥拝所)だったのでしょう。奈良街道は、当時熱狂的だったと言われるお伊勢参り参拝者の通り道でした。このような太神宮さん灯籠は奈良盆地各所にみられます。

⑤庚申堂(尭然山金輪院)
 庚申さん、と呼ばれ親しまれています。1659(万治2)年、片桐2代目藩主貞昌(石州)の家臣で茶人でもある藤林宗源が創建しました。「一国一宇」大和国にひとつだけの庚申信仰の総道場ということで門前の灯籠は④と同年の嘉永5年造立ですが「郡山御膳講」と記されており、大和の国の大藩であった郡山藩から寄進されたもののようです。講中(講を作っていた人々)の名前も、柳町や岡町、材木町などです。小泉藩だけの庚申さんではなかったことがわかります。

⑥庚申堂裏門
 この門は陣屋裏門が移築されたものと伝えられています。ただ、その裏門がどこにあったのかは史料がなく、瓦に片桐家の家紋「片桐違い矢(かたぎりちがいや)」がついているので、そうであることに思いを馳せることができるのみです。

⑦陣屋追手門への入り口
何も痕跡はありませんが、直進すると町方の北之町、左に折れると追手門に至る丁字路です。
道幅が狭い住宅街で車の通りは多くないですが、ここでの離合は譲り合いの気持ちが必要です。
 ※離合というのは西日本に多い表現だそうで、車のすれ違いのことです。

⑦ 陣屋追手門への入り口
ここは左右の道が低くなっています。水路と垂直交差するのでかつては左右とも堀か水路だったのではないでしょうか。

⑧追手門跡地
右側は公民館ですが一昔前は小泉保育所でした。このあたりに追手門があり、現在は小泉神社に移築され山門として残ります。門の横手は土塁だったそうです。藩の牢がここにありました。
この坂を上り始める左手に「親子塚」があります。

⑧親子塚(追手門跡西側)
―ある娘が若い武士との間に男の子を産んで亡くなった。その子村川兵蔵の養父、村川兵大夫は明石藩士瀬川藤太郎にあやまって斬られたのだが、1613(慶長18)年、この大和小泉において兵蔵が出会った藤太郎こそが実父だと判った。藤太郎は「生みの親より育ての親。私を討ちなさい」と告げ切腹。兵蔵も後を追って自害した。藤太郎39歳、兵蔵17歳。―
この親子を弔う塚です。写真を撮った日の天気が良く、フレアが出てしまいました。
※物語はこのリンク先で読むことができます(くずし字なので私は少しずつ頑張って読んでいます)。【和州小泉敵討親子塚】(国文学研究資料館)

町を歩くだけでは地形がわかりにくいですが、航空写真を見ると小泉城(陣屋)の城下町のイメージがしやすくなります。これからもいろいろ史料を探してみようと思っています。

小泉の城下町(1)

 ちょっと時間をかけて、城下町の(陣屋なので城下町と言ってよいのかわかりませんが)雰囲気がわかる図を描いてみました。地元の長老、Y口さんに頂いた昭和10年頃の町図面を元に、農業、勤め人以外の生業を順番に並べています。あいにく北之町(きたんちょう)の町図はなく、現在の「本町」部分が中心ですが、構図はわかるかと思います。北之町にもお店は並んでおり、昭和の中頃まではバスも走っていたとのことです。図を描くにあたっては各戸建屋の面積は考慮せず(できず)、また配置も多少ずれているので現在の住宅地図上に重ねてみても必ずしも現在のお宅に該当する訳ではなく、誤解されないようお願いします(今も商っていらっしゃる場合は明らかにわかるところもあります)。昭和に入ってからの町図ですから、藩があった頃から70年経っており、住民もかなり入れ替わっていると思いますが、町場の道路沿いに店や工房などが並んでいた様子は想像できると思います。

 道路の色が茶色の所が「町方(まちかた)」です。いわゆる城下町。薄茶(ピンク)は郭内の道路です。ここには描ききれませんでしたが、この図の東側には富雄川が流れており、その対岸、今の大和小泉駅に向かうあたりは「村方(むらかた)」といって農家が多く居住する地域でした(現在の字「市場」)。小泉神社から南へ延びる道路付近は「出張(でばり)」と呼びますが、北之町、中之町、本町、よりも後、江戸時代後期に発展し、町方は4町となったようです。

地元の長老Y口さんから頂いた住宅図を元に作成

 随所に鍵型が取り入れられており、見通しがきかない道路の配置を考えると、陣屋とはいえ立派に城下町としての機能を果たしていたことがうかがえます。幕末には郭内に約150人ほどの藩士(武士)が住んでおり、また町方には100戸程度の町屋があったようです。面積はさほど広いわけではなく、町方を南端から北端まで歩いたとしても20分程度でしょう。

 ちなみに、この図には庚申さんのそばに「太鼓倉」があります。秋祭りの布団太鼓(太鼓台)を格納する倉庫の一つが当時はここにありました。地元の人しかわからないかもしれませんが、今も秋祭りにて布団太鼓の小泉神社境内での練り、町内練りまわしがおこなわれています。2020年はCOVID-19(新型コロナ)の影響で中止となりましたが、毎年壮麗なお祭りを見ることができます。最近では担ぎ手が少なくなり大変そうですが、外部から転入された方もどんどん参加下さって、地元の祭りを続けられるといいなと思います。

小泉神社境内に揃った各地区の布団太鼓(大太鼓)。本町のものが最も古く2トンの重量がありますが、地域の方々が担いでお宮さんの階段を上り下りします。各地区の倉庫で保管されています。

続く

小泉城址(小泉城跡)の変遷(3)

少し趣向を変えて、上空から城跡(陣屋跡)を見てみます。国土地理院のサイト「地図・空中写真閲覧サービス」で、日本全国の過去の航空写真を閲覧することができるのです。小泉陣屋本丸付近を何年分かピックアップしてみました。

2008年(平成20年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

わかりやすくするために、現在城址の石碑が建って居る場所に赤丸をつけました。今が2020年なので12年前ですが、多少住宅は増えたり建て替えなどあるにしても、今もさほど変わってはいないようです。ではさらにさかのぼります。

 

 

1979年(昭和54年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

さらに20年前、1979年(昭和54年)です。住宅もまだ多くはなく、空き地や森が多く見えます。お庭池北側はまだ分譲されていません。

 

 

1975年(昭和50年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

4年遡って、1975年(昭和50年)です。更地が多く感じられます。木が茂る前の様子がわかります。石碑付近も土地が露出していますね。私の記憶では石碑の西側は資材置き場として使われていたように思います。軽トラックらしきものも見えます。

 

 

1961年(昭和36年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

更に14年前。この頃は片桐中学校があった時代です。中学校の様子が良くわかります。石碑は昭和26年に建てられたので、写っています。この中学に通っていらした方にお聞きしたところ、この石碑の西側にある楕円形のものは泉水(せんすい:庭園に造った池)だそうです。この後宅地分譲する1970年頃(昭和40年代)の様子を知りたかったのですが、あいにく鮮明な航空写真は見つかりませんでした。

 

 

1948年(昭和23年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

これが探した中で一番古いものでした。小泉城址の石碑は建てられる前なので、おおよその見当をつけて赤丸を書き入れました。片桐中学校は昭和23年に建てられた筈なので、この航空写真は中学校が建つ直前ではないかと思われます。前記事に書いた「ゴム工場」と「片桐神社」らしきものが見えます。以下に再掲します。

1930年(昭和5年)京谷康信氏作画の城址図

昭和23年には住宅も殆どなく、ただただ土地が広がっているような感じです。昭和5年当時は柿の木がよく茂っていたらしいので、その後ゴム工場のオーナーがこの地を購入されたのでしょうか。もしかすると小泉城址の変遷(1)で記した顕彰碑にある人物「吉田亀吉氏」と関係があるのかもれません。斑鳩町の図書館へ行けば何かわかるかもしれないので、またそのうちに調べてみます。

 

最後に、5枚の写真をスライドショーにしたものを掲載します。

小泉城址(小泉城跡)の変遷(2)

小泉陣屋の範囲(2)で引用した「片桐といふ處」には、別の図面も収録されていました。例によって個人宅のお名前は隠す加工をしています。

京谷康信氏著片桐といふ處」付録図

これを見ると、藩主邸宅跡に片桐神社があったような図になっています。「現在」、とあるのは出版時点、つまり昭和5年当時の様子であることを指します。本文には「藩主邸宅址に片桐神社があって、一間社春日造の神殿が、木鳥居一□無銘石燈籠二基と淋しく立って居るのは物あはれな感じがせぬではない」と記述があります(※一間社春日造は柱が2本で、桁行(柱の間)が1間のこと)。前記事(1)で解読した顕彰碑に記載がある「小泉神社(飛地境内)」

この付近は、小泉陣屋(片桐藩主家敷跡)が構えられ、また小泉神社(飛地境内)のあった所として広く親しまれてきた。

と関係がある気がします。そこで実は前から気になっていたことがあり、先日小泉神社に行ってきました。小泉神社境内に「片桐神社」があるのです。

小泉神社、本殿に向かって立つと右手に片桐神社があります

先日朔日参りをして、本殿を覗くとたまたま璒美川宮司がいらしたのでお話を伺ってみました。大変気さくな宮司様で、いろいろ聞くと教えて下さいました。片桐神社は、やはり藩主の邸宅内に元々あったそうです。中学校を建てるので、小泉神社境内に移転されたとのことで、モヤモヤが晴れました。そしてこの片桐神社は藩祖片桐貞隆の兄である片桐且元を祀っていることも教えて頂きました。藩主邸内に、兄を祀る神社を作っていたと考えると、兄弟の仲がすごくよかったのだなと感じます。

ついでながら、「昔は稲荷神社もあった」とのこと。確かに高林庵横の道路沿いに碑があります。

高林庵北側の道沿いにある片桐稲荷碑

この碑は昭和に入ってから建てられたものですが、昔はこのくぐり戸からお稲荷さんにお参りができたらしく、松尾山に上がる時にここに立ち寄るのがコースになっていたとか。

 

ところでもう一つ、気になるのは昭和5年には現在の城趾区域に「ゴム工場」があったらしいということです。藩主邸宅跡はの変遷は、

  • 明治~大正期間:不明
  • 昭和初期~昭和23年:ゴム工場と片桐神社
  • 昭和23年~昭和40年頃:片桐中学校
  • 昭和40年~:宅地分譲

と整理されるのかなと思います。ゴム工場について、何かわかると良いのですが。

続く

小泉城址(小泉城跡)の変遷(1)

城趾の石碑

現在、城趾公園として小さなスペースになっている場所に石碑がありますが、これは昭和26年に建てられたものです。裏面にまわるとそのことがわかります。

 

結構葉が茂ってくるので刈った直後にしかはっきり見えません

石碑建立に尽力された地元の方々のお名前が並んでいます。この石碑が建てられた頃、この場所には「片桐中学校」が存在しました。(現在の片桐中学校とは違います。)地元で、ある程度の年齢以上の方はこの(旧)片桐中学校ご出身のかたも多いかと思います。その頃の写真があればいいなと思いますが、身近に卒業生がいないので卒業写真などを見ることができません。もしお持ちのかたがいらっしゃれば、校舎の様子などを見せて頂きたいなと思うのですが。

中学校が建てられたのは昭和23年で、そのことは石碑横にある顕彰碑にも記されています。訪れる人は、新しい方の案内版は熱心に読まれていますが、足元の顕彰碑は読みづらいのもあって見逃している人が多いようです。

小泉城址顕彰碑

書かれている内容は

この付近は、小泉陣屋(片桐藩主家敷跡)が構えられ、また小泉神社(飛地境内)のあった所として広く親しまれてきた。なおこの地は昭和二十三年三月旧片桐中学校々舎が建設されるに當り所有者、斑鳩町笠目吉田亀吉氏が市へ提供されたものである。昭和五十五年七月建之大和郡山市長吉田泰一郎

いくつか気になったので調べていきました。

斑鳩町の吉田亀吉氏、何故この地を所有されたのかはわかりません。当時の市長と姓が同じなのも若干気にはなりますが、わからないのでとりあえず保留。あれこれ調べていると、亀吉氏は他にも痕跡がありました。斑鳩町笠目というと、JR大和路線法隆寺駅の近くです。法隆寺駅にもまた、亀吉氏の遺された石碑がありました。昭和二年建之、資産家でいらしたのかなと想像します。

JR大和路線法隆寺駅 広瀬神社道標

昭和23年から昭和40年頃まで、小泉陣屋跡には上記のとおり中学校がありましたが、その後住宅地として分譲されました。藩主邸跡地、特に台地先端部は6人の地元の方々が買われたそうで、六人衆とも自称されていたとか。(A氏、K氏、S氏、F氏、M氏、Y氏)いずれも元藩士または有力町人だった方々の後裔です。何かこの地への思いがあったのかもしれませんね。

続く

小泉陣屋(小泉城)の範囲(2)

1)より続く

ここまで緩やかな坂を上がったら台地に高さが揃うので、台地側(南)へ折れます。

ここが藩主邸の入り口につながる道です。

途中で一旦西向きに曲がっていた筈ですが、細い路地なので見学での通行は気をつかうかもしれません。そして、このあたりに藩主邸の表門があったのではないかと推察されます。※道の中央に棒が刺されています。私道のため通行にはご配慮ください。

藩主邸表門があったと思われるあたり

参考にしたのは
・京谷康信氏による「片桐城址乃見取図」-昭和5年
・米田藤博氏による「小泉藩の陣屋と郭内」図-平成21年

ここで一旦、「陣屋」とはどういうものなのかをまとめてみます。

いわゆる「無城大名」の居所で、武家屋敷と城下町(城は無いので城下とは言えず「町屋」)があるものの、天守閣のあるような「お城」ではなく「藩主のお屋敷」が町の中心、城郭のある町に比べるとかなり小規模なものです。大和郡山市だと郡山藩が幕末まで残り、郡山城天守閣は(二条城を経て淀城に移築された可能性大)再建されることは無かったものの大規模な堀や天守台があり、城下町の町割りも色濃く残っています。

余談ですが、小泉藩のことを調べるにつけ、残っている史料らしきものが少なく、あまり研究もされず、一方で郡山藩(柳沢家)は柳沢文庫さんに各種史料が多く残されうらやましく思っています。まあ規模はまったく違うので仕方ないのですが。よって憧れも含めて当ブログタイトルを「小泉文庫」にしました。

江戸末期に百家あまりあったとされる陣屋住まいの大名は関東と近畿に集中しており、東北や中四国・九州には少なかったそうです。小泉藩は当初1万6000石でしたが分知(知行の一部を親族に分与すること、分家)を繰り返したため幕末には1万1200石程度になっていました。とはいえ片桐の藩主は参勤交代をしており、江戸屋敷も存在していました。遠景ながら江戸上屋敷の写真も残っています(イギリス人写真師フェリーチェ・ベアト撮影の愛宕山からのパノラマ写真)。※この写真を見た時は結構「おおっ」となりました。

幕末の江戸300藩のうち奈良県下にあったのは以下の七藩でした。
郡山藩(城)
高取藩(城)
小泉藩(陣屋)
柳本藩(陣屋)
芝村藩(陣屋)
柳生藩(江戸定府)
櫛羅藩(江戸定府)
※田原本藩は藩として存在したのが明治維新ごろの短期間だったので入れませんでした。

小泉が名を連ねていたことは、地元の方々にも是非知って頂きたいと思っています。

では再び陣屋を考察します。

先に参考資料として挙げた京谷康信氏の著書「片桐といふ處」に収録された図「片桐城址乃見取図」には、おおまかな藩主邸宅の配置と、武士の屋敷が名前入りで記載されています。先程このあたりに藩主邸の表門があったのではないかとした場所は、この図の中央、お庭池の北側に「庫」と書かれている倉庫の北側です。

京谷康信氏著「片桐といふ處」付録「片桐城乃見取図」を引用致しましたが個人名を伏せる加工をしました。

この図は元々あった「小泉城址復元図」を元に京谷康信氏が調査を重ねて昭和5年に出版された本に付録としてつけられていたもので、現在の地形に照らしてもわかりやすく、2020年の今見て、相当な熱量で調査されたのだろうと想像します(今から90年前のことですから)。小泉藩の家臣(藩士)の住居がここまで詳細なのはこれしか見たことがありません。藩士については後々書くつもりでいますが、小泉藩の人口がだいたい1万人位、武士(士分)は幕末時点で150人程(足軽は含めず)が存在し域内に住んでいたので、そのうちの半分程度の住居を昭和に入って京谷氏が割り出されたことに驚愕しました。京谷氏は竜田ご出身で、片桐小学校の校長をされた方です。私はもっと時代が下ってからの片桐”西”小学校出身ですが、「京谷先生」がいらっしゃった記憶があります。もしかすると康信氏のご子息だったのかもしれませんが、もし叶うならお話を伺ってみたいです。

「片桐といふ處」は奈良県立図書情報館で閲覧ができます(書庫史料)。ご覧のようにノートを本に仕立ててあり、全ページ手書きで、ところどころ薄くなっているので閲覧時は注意が必要だと思います。片桐小学校にて学芸展覧会をするにあたり、その記念として調査発表されたものだと書かれています。当時ですら「日々に開墾されて城としての面目は殆ど失われ、士族は各地に離散し、故老は次第に失われて行く。今若し機を失せば此の種の調査は一段の困難を見るであらう」と書かれていて、私がこの地に関心を持った中でこの書に出会えたことは、僥倖としか思えませんでした。

コピーを持っていますので、確認したいことなどがありましたらお問い合わせください。

小泉陣屋(小泉城)の範囲(1)

訪れる人が結構戸惑っていらっしゃるのが、城跡や居館らしき痕跡がほぼ無いことかと思います。復興した隅櫓がある「なぎなた池」ほとりの高林庵は、石州流茶道宗家宅ではありますが、江戸時代の藩主邸は「小泉城跡石碑」の建つ高台にありました。

とはいえ、高林庵の櫓は大変立派なもので、往時の雰囲気を最も感じられるのではないかと思います。

小泉氏については今のところ殆ど史料を見つけることができていませんが、元は興福寺配下の一豪族で、1400年代には隣の筒井氏とよく争いがあったようです。永禄4年(1561)、小泉四郎左衛⾨重順が松永久秀に攻められ自害、しかし筒井氏の計らいで小泉氏は存続し、小泉四郎秀元(先の四郎左衛門とは別人)が筒井順慶の姻戚となり、天正12年(1584)には筒井氏の移封に随い伊賀国に移ったことなどが記録されているようです。小泉町善福寺に小泉四郎左衛⾨重順の墓があると記載されたものもありますが、どうやら江戸時代になってから制作された墓であると、昭和初期の書物(「大和片桐村の金石文」高田十郎氏著)には書かれていました。

※大河ドラマ「麒麟がくる」で多聞山城主の松永久秀(吉田鋼太郎さん)が出てくると複雑な気持ちになります・・・。小泉を攻めたことも描いて欲しいような欲しくないような。

その後、世は豊臣の時代となり石高制が全国的にひかれるようになりました(太閤検地以降)。郡山城100万余石大名、豊臣秀長の家老である羽田長門守が、小泉氏転出後の小泉の地に天正~文禄(1570~1590)頃、4万8000石で館を構えました(大和郡山市史本編P.365参照)。

後に小泉藩主となる片桐貞隆は賤ケ岳七本槍で名を馳せた片桐且元の弟で、天正8年(1580)21歳で藤吉郎秀吉に仕え播州150石を与えられました。その後は秀吉の勢いにつれ知行高も増え(山城、泉州、尾州など)、慶長6年(1601)42歳の時秀頼から大和国添下郡十三か村8000石弱を加増され都合高1万13石1斗の万石大名になりました。

※この十三か村の内訳は、伊豆七条村、田中村、小泉村、万願寺村、新木村、池内村、豊浦村、小南村、小林村、天井村、夙村、筒井村、杉村。(大和郡山市史P.362より)(※別の資料では伊豆七条村、田中村、小泉村、万願寺村、新木村、池内村、豊浦村、小南村、小林村、天井村、西村、筒井村、杉村 とされているものもあり2022年06追記

大阪冬の陣にて徳川方についた片桐且元、貞隆兄弟は摂津茨木に居城していましたが大阪城落城後且元はほどなく死去。且元家は大和竜田を与えられていたのでその嗣子が竜田を治めたものの大名としては存続することはなかったのです。

https://www.asahi.com/articles/ASJ9Z61XWJ9ZPLZB01V.html (こっそり「大坂冬の陣、和睦へ」 片桐且元の書状発見:朝日新聞デジタル)

弟の貞隆は徳川秀忠から引き続き旧来の知行を認められ、元和元年(1615)以降も本拠を茨木に置いていましたが、元和9年(1623)になってようやく知行地の小泉に拠点を移します。これが「小泉藩」の始まりと言えそうです。この時の藩領は上述の大和国添下郡13村、山城国(久世・相楽)に2村、河内国(交野・河内・丹北・讃良・八上)に5村、摂津国(川辺・八部・兎原)に7村、和泉国(和泉)に1村で1万5020石を知行するまでになっていました。(最大時で1万6716石)

小泉氏、羽田氏が館を構えた小泉は台地になっており、陣屋を構築するには申し分のない地形で、ゆくゆくの拡張も見越していたと見られます。陣屋周囲の内堀は延宝6年(1678)に銀四貫目をかけて完成したと「片桐家旧記」にあるそうですが、「大和郡山市史」には旧記の当該部分は載っていませんでした。外堀、お庭池、薙刀池は何時頃できたものかは不明です。おそらく羽田氏によったのではないかとされています。

ここまで解説が長くなりましたが、その陣屋まわりの堀(堀跡)を見てみると、おおよその陣屋範囲がわかるかと思い、各種史料を元にgooglemap上に堀を線引きしてみました。水色は水堀、緑色は空堀だったのではないかとの想定です。現在の地形から推測しての線引きですので、間違いもあるかと思います。細部においてはご容赦くださるようお願いします。現在居住されている方がお気を悪くされないことを祈ります。

ここで、実際の地を歩いてみます。

(説明のために写真を撮りましたが、どうしても個人のお宅が写り込んでしまいます。ボカシを入れたりするとわかりにくくなるので、表札は入らないよう角度には気をつけました。もし、気になる方がいらっしゃるようでしたらご一報頂ければ撮り直し致します。)

 まず、大和小泉駅からいわゆる「小泉城跡」に向かうと最初に目にするのはこの案内碑です。

この奥に進むと石の階段があります。これは後世につけられたものでしょう。階段を上がると小泉城跡の石碑が建つ小さな公園が。お地蔵さんがポツンとあるだけです。

ここで一旦もどってブラ〇〇〇のごとく高低差(地形)を見てみます。

「片桐城跡」案内碑から西へ向かう道はゆるやかな坂道になっています。この道路は昭和初期に整備された「新道」だと古くからお住まいの方にお聞きしました。

少し進むと左手に急勾配の坂があります。

これも昭和前半に設置されたようです。陣屋があった台地の高さがよくわかります。

そしてここから西を見てみると、ゆるやかな坂が続き、この台地と高さが揃うようになります。

この台地の南側に廻ると、やはり坂道があります。

この坂と坂に挟まれた範囲が藩主居住地です。

完全に住宅街で、生活道路になっているためブラ〇〇〇される方はご配慮くださいね。

(2)に続きます。