小泉藩の藩士を調べるには

2026年の大河ドラマ主人公が豊臣秀長ということで、郡山にはこれから大河ドラマ館が出来るでしょうし、賑わいそうですね。番組終わりの紀行でお城の口餅や大納言塚、春岳院とか紹介されるのでしょうか。金魚以外で有名になってもらえそうで市民としては嬉しい限りです。現存天守は無いですが、説によると郡山城→伏見城→二条城→淀城と移築された可能性もあるようで、いつか解明されるといいですね。大河については「また戦国」という声も聞きますけど、今の中高生位だと豊臣ストーリーは新鮮に感じるだろうし、農民からのサクセスストーリーはきっとワクワクするんじゃないでしょうか。秀長は優秀な人だったであろうことは知られていますが、お金に細かい一面もあったとか。農民出身なのだし、そりゃそうでしょうとも思います。そして三好長慶や松永久秀、筒井順慶、藤堂高虎あたりはしっかり描かれて欲しいです。以前書いたように、「豊臣秀長の家老である羽田長門守が、小泉氏転出後の小泉の地に天正~文禄(1570~1590)頃、4万8000石で館を構えました(大和郡山市史本編P.365参照)」なので、小泉のことも少し位は出ないかなあと期待します。

さて、小泉藩士の後裔の方などが、ご先祖を調べていてこちらのサイトを見て頂くケースがあるようなので、個人名が掲載されている資料を一覧整理してみました。私自身は藩士の個人名リストを少しずつ作ってみているのですが、なかなか進まず、また、出来たところで公開するのもいかがなものかと悩んでしまっています。

ありがたいことに、江戸時代の分限帳は読み下し、活字化して大和郡山市史・資料集に掲載されているので、かなり調べやすくなっています。また、最近では奈良県立図書情報舘の電子版ライブラリーで多くを閲覧できるようになったので助かります。私はコロナ流行期間中にせっせと通い、現物を撮影させて頂いたのですが、貴重な古書を閲覧できることはありがたいことでした。虫食いも多くて触れるのにかなり気を遣いました。おそらくその頃以降デジタル化を進められたのか、今は通常では現物閲覧はできないようです。

下の一覧表のうち、私自身がコピーや画像の入手、または現物などで内容確認できていないのは「分限帳 天保八年」のみです。他に細かく一人二人の名が載っているものもありましたが、ある程度の人数がわかるとなるとこれ位かなと思います。小藩ながら幕末~廃藩頃の藩士は士分のみならず卒までわかるので調べ甲斐がありますね。名字から、何となくあの同級生のご先祖様かな、違うかな、など想像するのも面白いです。今後、他に見つけることができれば追記します。

西暦和暦資料
1658万治1年分限帳 万治元年改 (大和郡山市史)
1661寛文1年分限帳 寛文元年改 (大和郡山市史)
1666寛文6年分限帳 寛文六年改 (大和郡山市史)
1671寛文11年分限帳 寛文十一年改 (大和郡山市史)
1673延宝1年分限帳 延宝元年改 (大和郡山市史)
1677延宝5年分限帳 延宝五年改 (大和郡山市史)
1681天和1年分限帳 天和元年改 (大和郡山市史)
1685貞享2年分限帳 貞享弐年改 (大和郡山市史)
1693元禄6年分限帳 元禄六年改 (大和郡山市史)
1698元禄11年分限帳 元禄十一年改 (大和郡山市史)
1702元禄15年分限帳 元禄十五年午改 (大和郡山市史)
1706宝永3年分限帳 宝永三年戌改 (大和郡山市史)
1711正徳1年分限帳 正徳元年卯改 (大和郡山市史)
1716享保1年分限帳 享保元年申改 (大和郡山市史)
1721享保6年分限帳 享保六年丑改 (大和郡山市史)
1726享保11年分限帳 享保十一年午改 (大和郡山市史)
1731享保16年分限帳 享保十六年亥改 (大和郡山市史)
1735享保20年分限帳 享保二十年
1736元文1年分限帳 元文元年辰改 (大和郡山市史)
1741寛保1年分限帳 寛保元年酉改 (大和郡山市史)
1744延享1年分限帳 延享元年子改 (大和郡山市史)
1748寛延1年分限帳 寛延元年辰改 (大和郡山市史)
1751宝暦1年分限帳 宝暦元年未改 (大和郡山市史)
1756宝暦6年分限帳 宝暦六年子改 (大和郡山市史)
1760宝暦10年分限帳 宝暦十年辰改 (大和郡山市史)
1837天保8年分限帳 天保八年
1845弘化2年分限帳 弘化二年
1848嘉永1年分限帳 嘉永元年
1858安政5年分限帳 安政五年
1871明治4年元小泉県諸願伺届書類 明治四年 庶務課 旧県掛 兵士解体御届 
(リンク先P.69)
1871明治4年旧知事士族卒禄帳
(リンク先P.201)
1871明治4年卒履歴表
(リンク先P.305)
1872明治5年士族履歴表 元小泉県 明治2年11⽉から明治5年2⽉までの元⼩泉県⼠族の履歴書
1872明治5年壬申冬季分元小泉方貫属家禄人名帳
(リンク先P.84)
1875明治8年明治七年二月ヨリ八年五月ニ至ル 旧小泉県之部 家禄奉還願 戸籍掛
1875明治8年明治八年奈良県史料 官員履歴簿 ※デジタル化はされていません
1930昭和5年片桐といふ處 ※デジタル化はされていません

小泉藩の藩札

藩札とは、江戸時代に1万石以上の領地を持つ大名が領地内での通用を幕府から許可された紙幣で、金貨や銀貨では使い勝手が良くないことから普及したようです。
 

ネットオークションで見かけて、ついつい買ってしまいました。宝暦10年(1760年)の小泉藩・銀一匁藩札です。画像で見ていた段階では一筆箋位のサイズをイメージしていたのですが、いざ届いて手に持ってみると思いのほか小さいです。縦15.3cm×横4.5cm。考えてみると今の紙幣のように折りたたみ財布に入れるのでは無いでしょうし、これ位のサイズが使いやすかったのでしょうか。ペラペラではなく厚みはしっかりしています。
大黒天や亀、龍など縁起の良い絵柄です。もしかすると龍は宝暦十庚辰(かのえたつ)歳、という年にちなんでいるのかもしれないですね。

藩札についての予備知識が全く無かったので、京都教育大学「おかね」の歴史とデザインを見つけて色々と知ることができました。画像右の「銀壱匁」と金額が記されている上の部分に壺のようなのが1個描かれていて、オークションをいくつか見ている時に「一」の時に1個、「五」の時に5個描いてあったので、何だろうと思っていたのですが、これは如意宝珠という仏教関連の絵だそうで、金額の数字が読めない(識字率が高いと言われた中世日本でも、文字に慣れない人が多かった)から、記号として記されたものだそうです。
この解説で、「金1両=銀50匁=4000文」1文はざっくり10円のイメージということから、銀一匁は800円程度だったのかな?とわかりました。

国分研のサイトに掲載されている日本実業史博物館旧蔵古紙幣目録によると、全国津々浦々の藩札をはじめとした古紙幣のコレクションには大名札として小泉藩のものも収蔵されているようです。私が手にした宝暦10年のもの以外には明治期の銭札しか記載が無いので(泉州の領地のものは除く)、この宝暦10年の発行数が多かったのだろうかと思ったりしましたが、発行自体が他の年には無かったのかもしれず、もうちょっと調べてみたいです。全国法令として宝永4年(1707年)に札遣い停止令が発され、藩札や私札の発行が禁じられたのち、享保15年(1730年)に解禁されるや200藩以上で金銀銭札が発行されたらしいので、ちょっとしたブームだったのかもしれないですね。
 

ここまで書いたのち、大和紙幣図史 (柳沢文庫: 1981年発行)という書籍があることを知ったので図書館で借りてきました。高価な書物を借りられる地元の図書館はありがたいです。


まず見て、びっくりするほどのすごい研究書です。著者の大鎌淳正氏は大和郡山市の古銭家ということですが、大和国の全藩札、旗本札、寺社札、町村札、商人札、鉱山札、奈良府札など広く収集、研究されていて、小泉藩藩札についての記述も13ページにわたり図とともに解説されていました。

「大日本貨幣史」に小泉藩ノ札は其ノ始メ詳ナラズ

と紹介されているように、宝暦10年の藩札以前に発行されたものは発行年月の記載がないものがあったようで、札所は3名(豊嶋五郎兵衛・伊谷朝右衛門・奈良屋忠太)の名が書かれています。宝暦10年のものは1名(奈良屋忠太)のみになっています。

デザインについても解説があり、
おもて
1段目は大黒天、2段目は霊亀、3段目は宝珠、4段目は銘と銀目、5段目は麒麟
4段目の銘は
阿暏一物大イニ貨殖ヲ益シ
農ニオイテ商ニオイテ此焉ンゾ斯ヲ棄テン

うら
1段目和州小泉、2段目神農図、
3段目中央朱印は「千歳不易」
左右の銘は
交易權ヲ待タズシテ足ル 來往勞裝ナクシテ可ナリ節儉ノ政、不易ノ器ナリ 千ノ金子 之ヲ貨ト况ンヤ編戸ノ民ニ乎ヲヤ
札所は小泉領八箇村の大庄屋格であったと思しき奈良屋忠太1名の記載
※八箇村は小南、田中、西、満願寺、小林、池内、小泉、筒井 とされています。

詳細は著者もわからないこととして、郡山藩士が書き残した書に「宝暦13未年4月11日、材木町番條屋庄兵衛 忠三郎 小泉銀札の件ニ付 公訴之事」とあり、宝暦13年(1763年)に、この小泉藩札に関して何か事件があったようだと記述されています。

「大和紙幣図史」には明治維新時の藩札処理についてもまとめられていますが、結構ボリュームがあるので、またそのうち追記します。

約260年前の1枚の藩札をきっかけに新たに知ることもあり、やはりこれからも地道に調べて行こうと思います。
 

小泉の太神宮常夜燈(2)

小泉にある他の太神宮常夜燈も2基紹介します。1基は慈光院の池のほとり、富雄川沿いに他の石碑と一緒に設置されている北之町灯籠です。小泉の太神宮常夜燈(1)で書いた嘉永5年のものより20年古く、天保3年壬辰9月と記されています(天保3年は1832年)。おそらく何かのタイミングで移設されたような雰囲気ですね。石碑広場みたいになっていて、奥にあるのが「忠魂碑」と記され陸軍の軍人名、左側のものは「殉国之碑」とあり数多くの個人名が刻まれています。太平洋戦争の犠牲者のようです。

こちらの太神宮常夜燈も頑張って人名を解読してみましたが、かなり薄くなっていて難しいです。右側(北面)を見ることができなくて、葉が落ちる冬に狙ってみたのですが、読み取ることができませんでした。

北之町 太神宮常夜燈 天保3年(1932年)

 

【上段】
北之町
【下段】
〇〇〇〇〇〇
池内村九兵衛
小南村源左衛門
同村 太右衛門
吉屋善兵衛
同 馬蔵
綿屋源三郎
伊谷浅右衛門
〇本屋半兵衛
加勢屋藤兵衛
堀内徳(?)兵衛
西村〇〇〇
田辺与左衛門
小西八左衛門
釜下庄兵衛
豊中村勝五郎

 

【上段】
〇〇〇〇〇〇
〇〇理三郎
〇出源三郎
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
 不明

【下段】
池上村甚〇〇〇
北出村〇大〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇庄右衛門
〇〇屋〇七
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇田屋半(平?)兵衛
世話人
〇屋源蔵
〇〇屋〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇

前面、側面に「豊中村」「北出村」「池上村」(いずれも現在の泉大津市)の人物名が入っていて、そういえば小泉藩の支配地に泉大津があったことを思い出しました。泉大津市のサイトにもそのことが書かれています(※リンク先が改修されたようで、こちらのPDF6ページ目に書かれています)。支配地についても今後書いてみようと思います。この灯籠の見えている前面(東面)と南面に刻まれている人物名は、屋号や村名が多く、城下町の町人や農民なのかな?と想像します。灯籠上部の側面には「御領主御武運長久」と、領主である片桐氏(この時代は8代片桐貞信)の武運長久を祈った言葉が記されています。

次の1基は、市場の細い道沿いに残っているものです。正面に「村中安全」と記され、明治13年12月に建てられたことが裏面に記されていました。こちらは汚れがひどく、名前を読み取るにはもうちょっとうまく写真を撮らないと無理でした。そのうち挑戦します。

建物に食い込んだ状態で建っているので、裏面を見るのはちょっと大変でした。

他にも、これ太神宮さんじゃないのかなあ?と思う灯籠を見かけることがあるので、また見つけたら追記します。

普段あまり気にせずに通り過ぎてしまう石造物ですが、彫られた文字はその土地の歴史を伝えてくれるなあと思います。こうやって一人一人の名前を見ることで、この地に生きていた人々の存在を少し身近に感じることができました。藩士はある程度、史料に名前が残っているのですが、町民や農民のほうがはるかに多かったわけで、それらの人々の生活ぶりに思いを馳せたりして。市場などは村方で農民の居住地で、歩いてみると古くからありそうな大きなお屋敷が多くて、豪農だったんだろうなと想像が膨らみます。ちなみに小泉藩の人口は、幕末時点で下の通りでした。これは藩制一覧に掲載されています。


※藩制一覧・・・明治初年に太政官から各藩に対して藩の草高・税目・税額・人口・戸数・社寺数の調査を命じたことに対し、上申があった281藩からのものをまとめた一覧。昭和3年に書籍として出版。

小泉藩(藩制一覧より)
石 高 :1万1202石6斗1升7号
総戸数 :2109戸(知事の戸籍1戸は計上せず)
総人口 :9223人 内 男4564人+女4659人(知事1人並びに家族4人合計5人は計上せず)
士族戸数:165戸
士族人口:680人 内 男318人+女362人
卒族戸数:91戸
卒族人口:288人 内 男154人+女134人
平民戸数:1473戸
平民人口:6841人 内 男3410人+女3431人
寺 院 :57ヶ寺 僧66人
尼 戸数:3戸 尼11人
ほか

士族とは士分(騎士と徒士)を指し元藩士のこと、卒族とは足軽や同心などを指します。(明治維新以降定められた分類)藩士については今後少しずつ記事にしてみようと考えています。

薙刀池・御庭池

しばらく仕事が立て込んでおり、投稿できませんでした。次に書こうとしていたテーマが大きすぎてまとまらないので、気分を変えて撮影した池の写真をアップします。このあたりをのんびりと散歩される地元の人をよく見かけます。

「なぎなた池」はその名のとおり薙刀の形をしているからでしょう。羽田長門守(戦国時代郡山城城主だった豊臣秀長の家老)がこの地を治めた時代に外堀として造ったものと伝わっています。羽田長門守は実際には郡山に住んでいたとのこと。その後片桐氏の小泉藩時代、このあたりは上級中級の藩士邸宅が軒を連ねていました。廃藩後は住む人も減ったそうですが、昭和10年頃、藩主末裔と姻戚となった藩出身のM氏が古材を集めて自邸に模擬など建築されました。そのおかげで今も池の対岸からは往時の雰囲気が感じられる風景が残っています。個人宅としてお住まいですので全景は遠慮し、写真はお庭池側との間から北西向きに撮っています。

<春> ほとりの桜が散ると花筏になり風情があります
<夏> かなり藻が繁殖して緑の池に
<冬> 石の竪樋が露出 整然と積まれた石垣も見えます

 

振り返って東側のお庭池を。藩主邸宅の南側に広がる池なのでお庭池と言うのでしょう。これもまた、薙刀池と同じころ、堀として造成されたそうです。

<夏> ジャングルみたいですね かなり木や草が茂ります
<冬> ちょっと幻想的? 水利組合の方々が水を抜いた池底で焚火をされています 

 

地元でも、城跡(陣屋跡)がどのあたりなのか、といったことや、この2つの池が堀だったということまであまり意識されていない気がします。片桐西小学校の校歌に「片桐の城のあと ひらけゆく あらたな郷土」という詞がありますが、あらたな郷土になっても歴史が忘れ去られないよう願います。

小泉の城下町(2)

小泉の城下町(1)で描いた町方図は昭和10年頃の様子でした。国土地理院のサイトで公開されている昭和23年の航空写真に重ねます。地形に殆ど変化は無いので現在の景色からでも想像しやすいです。

元の航空写真も下に貼っておきます。昭和23年には片桐西小学校が建っていませんし、慈光院の南側、しまむらやダイソーに向かう西向き上り坂の太い道路もまだ整備されていません。コーナンの前から斑鳩へ続く道はまだありません。コーナンから大和小泉駅へ続く道はできていますが、当時は「新道」と呼ばれていたそうです。そういえば、現在の片桐中学校のある場所は昭和50年代中頃までは池でした。埋め立てて学校を建てられました。

では各所で現在の写真を撮ってきましたので、南から見ていきます。

①町方入口あたり
 出張(でばり)と言われた地域です。左に見えている石の道標には西へ行くと法起寺と法輪寺へ続くと書かれています。建てられた年月日は読み取れませんが、奈良街道を竜田へ向かうか天理方面へ向かうかの分かれ道だそうです。
 ※参考:南都銀行地域事業創造部サイト

②小泉神社鳥居前
 ここで右折れして東に向かうと本町です。小泉神社の鳥居あたりまでは平らな道ですが、その先は上り坂になっており、この付近に陣屋郭内の南門がありました。

③本町桝形(鍵曲・クランク)
 城下町特有の鍵型に曲がった道路です。 街道を屈曲させることで外敵の侵入を妨げる防御装置としての役割がありました。

   

④高灯籠
 ある程度の年齢以上の地元のかたは、この囲いの前に「たこ焼き店」があったことを記憶されているのではないでしょうか。(コンクリートブロックの土台がその形跡)
 この灯籠は江戸時代末期嘉永5年(1852)に有志により建てられたもので前面中央に「太神宮」その下に「月参講」と彫られています。つまり、伊勢講の月参り場所(遥拝所)だったのでしょう。奈良街道は、当時熱狂的だったと言われるお伊勢参り参拝者の通り道でした。このような太神宮さん灯籠は奈良盆地各所にみられます。

⑤庚申堂(尭然山金輪院)
 庚申さん、と呼ばれ親しまれています。1659(万治2)年、片桐2代目藩主貞昌(石州)の家臣で茶人でもある藤林宗源が創建しました。「一国一宇」大和国にひとつだけの庚申信仰の総道場ということで門前の灯籠は④と同年の嘉永5年造立ですが「郡山御膳講」と記されており、大和の国の大藩であった郡山藩から寄進されたもののようです。講中(講を作っていた人々)の名前も、柳町や岡町、材木町などです。小泉藩だけの庚申さんではなかったことがわかります。

⑥庚申堂裏門
 この門は陣屋裏門が移築されたものと伝えられています。ただ、その裏門がどこにあったのかは史料がなく、瓦に片桐家の家紋「片桐違い矢(かたぎりちがいや)」がついているので、そうであることに思いを馳せることができるのみです。

⑦陣屋追手門への入り口
何も痕跡はありませんが、直進すると町方の北之町、左に折れると追手門に至る丁字路です。
道幅が狭い住宅街で車の通りは多くないですが、ここでの離合は譲り合いの気持ちが必要です。
 ※離合というのは西日本に多い表現だそうで、車のすれ違いのことです。

⑦ 陣屋追手門への入り口
ここは左右の道が低くなっています。水路と垂直交差するのでかつては左右とも堀か水路だったのではないでしょうか。

⑧追手門跡地
右側は公民館ですが一昔前は小泉保育所でした。このあたりに追手門があり、現在は小泉神社に移築され山門として残ります。門の横手は土塁だったそうです。藩の牢がここにありました。
この坂を上り始める左手に「親子塚」があります。

⑧親子塚(追手門跡西側)
―ある娘が若い武士との間に男の子を産んで亡くなった。その子村川兵蔵の養父、村川兵大夫は明石藩士瀬川藤太郎にあやまって斬られたのだが、1613(慶長18)年、この大和小泉において兵蔵が出会った藤太郎こそが実父だと判った。藤太郎は「生みの親より育ての親。私を討ちなさい」と告げ切腹。兵蔵も後を追って自害した。藤太郎39歳、兵蔵17歳。―
この親子を弔う塚です。写真を撮った日の天気が良く、フレアが出てしまいました。
※物語はこのリンク先で読むことができます(くずし字なので私は少しずつ頑張って読んでいます)。【和州小泉敵討親子塚】(国文学研究資料館)

町を歩くだけでは地形がわかりにくいですが、航空写真を見ると小泉城(陣屋)の城下町のイメージがしやすくなります。これからもいろいろ史料を探してみようと思っています。

旧・片桐中学校

小泉城址(小泉城跡)の変遷(3)にて航空写真で見た旧片桐中学校のことを知りたい、写真が見たいと思っていたところ、卒業生の方からアルバムをお借りすることができました。1958年(昭和33年)のものです。

1958年旧片桐中学校卒業アルバム

アルバムを開くと最初に目に入るのが、石階段の写真です。
拡大して現在の写真と並べてみます。

1958年(昭和33年)
2020年(令和2年)

第七回卒業生記念植樹の碑
石階段を下から望む

 

アルバム写真で右上の建物手前に写っている四角い柱はこの碑で、「第七回卒業生記念植樹」と彫られています。できるだけ同じ角度で階段を撮影したかったのですが、足場が確保できなかったので、ギリギリ近いアングルで撮っています。石階段は途中に平らな部分があり、下側は16段、上は20段あります。卒業アルバムの写真は20段なので、おそらく組み直しはしていないのではないでしょうか。この下にまだ16段あるのだと思われます。今は山茶花の植え込みがあってちょっと通路が狭くなってしまっていますね。

そして、アルバム写真の左上に写っている避雷針?あるいは旗ポール?らしきものを目印にすると、全体像がわかります。

こちらは同じ角度から現在の様子を撮影するとなると個人宅が入りまくってしまう(というより全体像が見渡せる場所がもはやない)ので、小泉城址(小泉城跡)の変遷(3)で掲載した航空写真を参照。赤丸は城跡石碑の場所です。

1961年(昭和36年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

石碑の西側には泉水があり、その西側には3つの建物をつなぐ渡り廊下があったようです。卒業生のお方に伺ったところ、その渡り廊下でつながった3つある建物の北側が職員室だったとか。土俵もあったらしいのですが、どのあたりだったのかは写真からは割り出せませんでした。

小泉藩のことを調べる中で、近い歴史である昭和時代も知ることができ、ありがたく思います。土地の様子や建物は時代とともに変わるものですが、こうやって記録が残っているおかげで地域をより深く理解できました。


※写真を流用するにあたり、卒業アルバムの著作権について調べてみたのですが、その学校に帰属、あるいは人物については肖像権が、とされており、掲載されている風景写真については卒業アルバムという特性上、広く出版されているものではないので著作権はどこにも発生しないようでした。学校自体がもう無く(今の片桐中学校とはつながらない)、学校に確認することも不可能なため、人物の顔がはっきりとわからない写真は使用できると考えました。もしも、問題があることにお気付きの場合はお知らせ頂きますようよろしくお願い致します。

小泉城址(小泉城跡)の変遷(3)

少し趣向を変えて、上空から城跡(陣屋跡)を見てみます。国土地理院のサイト「地図・空中写真閲覧サービス」で、日本全国の過去の航空写真を閲覧することができるのです。小泉陣屋本丸付近を何年分かピックアップしてみました。

2008年(平成20年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

わかりやすくするために、現在城址の石碑が建って居る場所に赤丸をつけました。今が2020年なので12年前ですが、多少住宅は増えたり建て替えなどあるにしても、今もさほど変わってはいないようです。ではさらにさかのぼります。

 

 

1979年(昭和54年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

さらに20年前、1979年(昭和54年)です。住宅もまだ多くはなく、空き地や森が多く見えます。お庭池北側はまだ分譲されていません。

 

 

1975年(昭和50年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

4年遡って、1975年(昭和50年)です。更地が多く感じられます。木が茂る前の様子がわかります。石碑付近も土地が露出していますね。私の記憶では石碑の西側は資材置き場として使われていたように思います。軽トラックらしきものも見えます。

 

 

1961年(昭和36年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

更に14年前。この頃は片桐中学校があった時代です。中学校の様子が良くわかります。石碑は昭和26年に建てられたので、写っています。この中学に通っていらした方にお聞きしたところ、この石碑の西側にある楕円形のものは泉水(せんすい:庭園に造った池)だそうです。この後宅地分譲する1970年頃(昭和40年代)の様子を知りたかったのですが、あいにく鮮明な航空写真は見つかりませんでした。

 

 

1948年(昭和23年)薙刀池・お庭池を含む陣屋本丸付近航空写真(国土地理院サイトより)

これが探した中で一番古いものでした。小泉城址の石碑は建てられる前なので、おおよその見当をつけて赤丸を書き入れました。片桐中学校は昭和23年に建てられた筈なので、この航空写真は中学校が建つ直前ではないかと思われます。前記事に書いた「ゴム工場」と「片桐神社」らしきものが見えます。以下に再掲します。

1930年(昭和5年)京谷康信氏作画の城址図

昭和23年には住宅も殆どなく、ただただ土地が広がっているような感じです。昭和5年当時は柿の木がよく茂っていたらしいので、その後ゴム工場のオーナーがこの地を購入されたのでしょうか。もしかすると小泉城址の変遷(1)で記した顕彰碑にある人物「吉田亀吉氏」と関係があるのかもれません。斑鳩町の図書館へ行けば何かわかるかもしれないので、またそのうちに調べてみます。

 

最後に、5枚の写真をスライドショーにしたものを掲載します。

小泉陣屋(小泉城)の範囲(2)

1)より続く

ここまで緩やかな坂を上がったら台地に高さが揃うので、台地側(南)へ折れます。

ここが藩主邸の入り口につながる道です。

途中で一旦西向きに曲がっていた筈ですが、細い路地なので見学での通行は気をつかうかもしれません。そして、このあたりに藩主邸の表門があったのではないかと推察されます。※道の中央に棒が刺されています。私道のため通行にはご配慮ください。

藩主邸表門があったと思われるあたり

参考にしたのは
・京谷康信氏による「片桐城址乃見取図」-昭和5年
・米田藤博氏による「小泉藩の陣屋と郭内」図-平成21年

ここで一旦、「陣屋」とはどういうものなのかをまとめてみます。

いわゆる「無城大名」の居所で、武家屋敷と城下町(城は無いので城下とは言えず「町屋」)があるものの、天守閣のあるような「お城」ではなく「藩主のお屋敷」が町の中心、城郭のある町に比べるとかなり小規模なものです。大和郡山市だと郡山藩が幕末まで残り、郡山城天守閣は(二条城を経て淀城に移築された可能性大)再建されることは無かったものの大規模な堀や天守台があり、城下町の町割りも色濃く残っています。

余談ですが、小泉藩のことを調べるにつけ、残っている史料らしきものが少なく、あまり研究もされず、一方で郡山藩(柳沢家)は柳沢文庫さんに各種史料が多く残されうらやましく思っています。まあ規模はまったく違うので仕方ないのですが。よって憧れも含めて当ブログタイトルを「小泉文庫」にしました。

江戸末期に百家あまりあったとされる陣屋住まいの大名は関東と近畿に集中しており、東北や中四国・九州には少なかったそうです。小泉藩は当初1万6000石でしたが分知(知行の一部を親族に分与すること、分家)を繰り返したため幕末には1万1200石程度になっていました。とはいえ片桐の藩主は参勤交代をしており、江戸屋敷も存在していました。遠景ながら江戸上屋敷の写真も残っています(イギリス人写真師フェリーチェ・ベアト撮影の愛宕山からのパノラマ写真)。※この写真を見た時は結構「おおっ」となりました。

幕末の江戸300藩のうち奈良県下にあったのは以下の七藩でした。
郡山藩(城)
高取藩(城)
小泉藩(陣屋)
柳本藩(陣屋)
芝村藩(陣屋)
柳生藩(江戸定府)
櫛羅藩(江戸定府)
※田原本藩は藩として存在したのが明治維新ごろの短期間だったので入れませんでした。

小泉が名を連ねていたことは、地元の方々にも是非知って頂きたいと思っています。

では再び陣屋を考察します。

先に参考資料として挙げた京谷康信氏の著書「片桐といふ處」に収録された図「片桐城址乃見取図」には、おおまかな藩主邸宅の配置と、武士の屋敷が名前入りで記載されています。先程このあたりに藩主邸の表門があったのではないかとした場所は、この図の中央、お庭池の北側に「庫」と書かれている倉庫の北側です。

京谷康信氏著「片桐といふ處」付録「片桐城乃見取図」を引用致しましたが個人名を伏せる加工をしました。

この図は元々あった「小泉城址復元図」を元に京谷康信氏が調査を重ねて昭和5年に出版された本に付録としてつけられていたもので、現在の地形に照らしてもわかりやすく、2020年の今見て、相当な熱量で調査されたのだろうと想像します(今から90年前のことですから)。小泉藩の家臣(藩士)の住居がここまで詳細なのはこれしか見たことがありません。藩士については後々書くつもりでいますが、小泉藩の人口がだいたい1万人位、武士(士分)は幕末時点で150人程(足軽は含めず)が存在し域内に住んでいたので、そのうちの半分程度の住居を昭和に入って京谷氏が割り出されたことに驚愕しました。京谷氏は竜田ご出身で、片桐小学校の校長をされた方です。私はもっと時代が下ってからの片桐”西”小学校出身ですが、「京谷先生」がいらっしゃった記憶があります。もしかすると康信氏のご子息だったのかもしれませんが、もし叶うならお話を伺ってみたいです。

「片桐といふ處」は奈良県立図書情報館で閲覧ができます(書庫史料)。ご覧のようにノートを本に仕立ててあり、全ページ手書きで、ところどころ薄くなっているので閲覧時は注意が必要だと思います。片桐小学校にて学芸展覧会をするにあたり、その記念として調査発表されたものだと書かれています。当時ですら「日々に開墾されて城としての面目は殆ど失われ、士族は各地に離散し、故老は次第に失われて行く。今若し機を失せば此の種の調査は一段の困難を見るであらう」と書かれていて、私がこの地に関心を持った中でこの書に出会えたことは、僥倖としか思えませんでした。

コピーを持っていますので、確認したいことなどがありましたらお問い合わせください。

小泉陣屋(小泉城)の範囲(1)

訪れる人が結構戸惑っていらっしゃるのが、城跡や居館らしき痕跡がほぼ無いことかと思います。復興した隅櫓がある「なぎなた池」ほとりの高林庵は、石州流茶道宗家宅ではありますが、江戸時代の藩主邸は「小泉城跡石碑」の建つ高台にありました。

とはいえ、高林庵の櫓は大変立派なもので、往時の雰囲気を最も感じられるのではないかと思います。

小泉氏については今のところ殆ど史料を見つけることができていませんが、元は興福寺配下の一豪族で、1400年代には隣の筒井氏とよく争いがあったようです。永禄4年(1561)、小泉四郎左衛⾨重順が松永久秀に攻められ自害、しかし筒井氏の計らいで小泉氏は存続し、小泉四郎秀元(先の四郎左衛門とは別人)が筒井順慶の姻戚となり、天正12年(1584)には筒井氏の移封に随い伊賀国に移ったことなどが記録されているようです。小泉町善福寺に小泉四郎左衛⾨重順の墓があると記載されたものもありますが、どうやら江戸時代になってから制作された墓であると、昭和初期の書物(「大和片桐村の金石文」高田十郎氏著)には書かれていました。

※大河ドラマ「麒麟がくる」で多聞山城主の松永久秀(吉田鋼太郎さん)が出てくると複雑な気持ちになります・・・。小泉を攻めたことも描いて欲しいような欲しくないような。

その後、世は豊臣の時代となり石高制が全国的にひかれるようになりました(太閤検地以降)。郡山城100万余石大名、豊臣秀長の家老である羽田長門守が、小泉氏転出後の小泉の地に天正~文禄(1570~1590)頃、4万8000石で館を構えました(大和郡山市史本編P.365参照)。

後に小泉藩主となる片桐貞隆は賤ケ岳七本槍で名を馳せた片桐且元の弟で、天正8年(1580)21歳で藤吉郎秀吉に仕え播州150石を与えられました。その後は秀吉の勢いにつれ知行高も増え(山城、泉州、尾州など)、慶長6年(1601)42歳の時秀頼から大和国添下郡十三か村8000石弱を加増され都合高1万13石1斗の万石大名になりました。

※この十三か村の内訳は、伊豆七条村、田中村、小泉村、万願寺村、新木村、池内村、豊浦村、小南村、小林村、天井村、夙村、筒井村、杉村。(大和郡山市史P.362より)(※別の資料では伊豆七条村、田中村、小泉村、万願寺村、新木村、池内村、豊浦村、小南村、小林村、天井村、西村、筒井村、杉村 とされているものもあり2022年06追記

大阪冬の陣にて徳川方についた片桐且元、貞隆兄弟は摂津茨木に居城していましたが大阪城落城後且元はほどなく死去。且元家は大和竜田を与えられていたのでその嗣子が竜田を治めたものの大名としては存続することはなかったのです。

https://www.asahi.com/articles/ASJ9Z61XWJ9ZPLZB01V.html (こっそり「大坂冬の陣、和睦へ」 片桐且元の書状発見:朝日新聞デジタル)

弟の貞隆は徳川秀忠から引き続き旧来の知行を認められ、元和元年(1615)以降も本拠を茨木に置いていましたが、元和9年(1623)になってようやく知行地の小泉に拠点を移します。これが「小泉藩」の始まりと言えそうです。この時の藩領は上述の大和国添下郡13村、山城国(久世・相楽)に2村、河内国(交野・河内・丹北・讃良・八上)に5村、摂津国(川辺・八部・兎原)に7村、和泉国(和泉)に1村で1万5020石を知行するまでになっていました。(最大時で1万6716石)

小泉氏、羽田氏が館を構えた小泉は台地になっており、陣屋を構築するには申し分のない地形で、ゆくゆくの拡張も見越していたと見られます。陣屋周囲の内堀は延宝6年(1678)に銀四貫目をかけて完成したと「片桐家旧記」にあるそうですが、「大和郡山市史」には旧記の当該部分は載っていませんでした。外堀、お庭池、薙刀池は何時頃できたものかは不明です。おそらく羽田氏によったのではないかとされています。

ここまで解説が長くなりましたが、その陣屋まわりの堀(堀跡)を見てみると、おおよその陣屋範囲がわかるかと思い、各種史料を元にgooglemap上に堀を線引きしてみました。水色は水堀、緑色は空堀だったのではないかとの想定です。現在の地形から推測しての線引きですので、間違いもあるかと思います。細部においてはご容赦くださるようお願いします。現在居住されている方がお気を悪くされないことを祈ります。

ここで、実際の地を歩いてみます。

(説明のために写真を撮りましたが、どうしても個人のお宅が写り込んでしまいます。ボカシを入れたりするとわかりにくくなるので、表札は入らないよう角度には気をつけました。もし、気になる方がいらっしゃるようでしたらご一報頂ければ撮り直し致します。)

 まず、大和小泉駅からいわゆる「小泉城跡」に向かうと最初に目にするのはこの案内碑です。

この奥に進むと石の階段があります。これは後世につけられたものでしょう。階段を上がると小泉城跡の石碑が建つ小さな公園が。お地蔵さんがポツンとあるだけです。

ここで一旦もどってブラ〇〇〇のごとく高低差(地形)を見てみます。

「片桐城跡」案内碑から西へ向かう道はゆるやかな坂道になっています。この道路は昭和初期に整備された「新道」だと古くからお住まいの方にお聞きしました。

少し進むと左手に急勾配の坂があります。

これも昭和前半に設置されたようです。陣屋があった台地の高さがよくわかります。

そしてここから西を見てみると、ゆるやかな坂が続き、この台地と高さが揃うようになります。

この台地の南側に廻ると、やはり坂道があります。

この坂と坂に挟まれた範囲が藩主居住地です。

完全に住宅街で、生活道路になっているためブラ〇〇〇される方はご配慮くださいね。

(2)に続きます。

小泉の地名

小泉城についてはこちらの大和郡山市歴史辞典に詳しく書いてくださっていて、『額安寺⽂書』によると839年(貞和6年)には小泉庄に地侍の小泉氏がいたことがわかっています。

小泉城https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/src/history_data/h_021.html

小泉の地名は、湧き水が枯れたことがないとされる「小白水」という泉から名付けられています。小白水を縦書きすると、「小泉」とも読めます。

江戸時代前期(寛文三年)に石州が建立した石碑(現在は片桐地区公民館の敷地内に設置)

小白水は片桐石州(小泉藩2代目藩主定昌)が茶の湯に使用していたとも言われ(近いので当然かと)、古来から名水として重宝されてきたようです。残念ながら県道に面していて車の往来が多いので、じっくり見ることは難しいですし、すでに井戸そのものは埋められているのですが、 ここが地名の由来だということはもう少し知られてもいいのかな。と思います。

場所はこちら