元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図

先月の大和郡山市広報誌つながり(2023年3月15日号)に、市内の自治会から古地図が寄贈されたという記事がありました。さらに、つながり4月1日号の「市長てくてく城下町」コラムによると絵図は傷みがあり、修復の上、原寸大複製図を市役所ロビーに展示されているとのことです。元禄3年(1690年)に作成されたもので、富雄川の流路や小泉陣屋が克明に描かれているらしいので、これは見なければと行ってきました。
※展示は3月15日から4月14日まで。ロビー展示のため、土日は見ることができません。

大和郡山市役所ロビーに展示された「元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図(控)の複製」を撮影したもの

寸法2405mm×1700mmとかなり大きく、克明に描かれた絵図に見入ってしまいました。修復技術のおかげなのでしょう、傷みの程度は破れの部分しか分からない位です。

大和郡山市役所ロビーに展示された、まちづくり戦略課文化財保存活用係による解説パネルを撮影したもの

 

上記解説書と吊り下げられていた配布用資料によると、絵図は富雄川から農業用水を引き込む村々の争い(水論)が和解した時に描かれたもので、関係各村の庄屋や年寄など22人の署名がされています。署名は裏面に書かれているようで、左上にうっすらと反転した文字が見えます。押印が無いため、発見された絵図は控えで原本は他にあると考えられるそうです。

「井堰」とは、水を他のところに引くため川水をせき止めるところ。つまり川のなかで段になっているところのことなのかなと思います。

また「水論」について調べると、次のような説明がありました。

干ばつのときだけ水論が起こるわけではない。中世水論の原因は
(1)番水の際の用水配分の順序や時間についてのトラブル
(2)灌漑用水使用料等の授受をめぐってのトラブル
(3)旧来の井堰の改修や新しい井堰を作ったため下流の井堰などに悪影響をもたらした場合
がおもなものであった。最も多かったのは(3)であり、中世の相論で〈新井〉を立てたといって問題にされているものの大部分は、他の灌漑施設に甚大な被害を与える灌漑施設の新設を行った場合なのである(平凡社世界大百科事典

「井堰」という言葉を聞いたことはあっても水利組合の関連かなぁ?、程度にしか知らなかったので、ちょっと勉強になりました。

井堰の名称が、「三ヶ井」「十ヶ井」「七ヶ井」と書かれています。「三ヶ井」「十ヶ井」はいまの城町のあたりから新木、田中、外川に引水した堰と、小南、外川、満願寺、田中、池内、豊浦、本庄、杉、筒井まで広範囲に引水した堰、「七ヶ井」は筒井、小林、今国府、椎木に引水した堰、と説明されていました。そこでハッとしたのが、富雄川沿いのスーパープライスカットの少し北側の川沿いに設置されている記念碑です。七個郷用水路改修記念碑と書いてあり、ここがその七ヶ井だと納得しました。記念碑の冒頭に書かれている寛文元年は1661年で、今回の元禄絵図の30年前の絵図にも3つの井堰が描かれているとされています。遅くとも鎌倉時代頃には井堰は設置されていたらしいので、富雄川は私たちの町の歴史とともにあったということをあらためて感じました。

 

 

さて、一番興味のあった小泉陣屋部分について、アップで撮影してきました。陣屋部分は「小泉御屋敷」として陣屋全体をひとまとめにして描かれています。
元禄3年は三代片桐貞房の時代で、二代目である貞昌(石州)が建てた慈光院は出来ていた筈ですが絵図には記載がありません。また、延宝元年(1673年)に出来上がったと旧記に書かれている内堀も、この絵図には描かれていないので、省略されているのか、あるいは詳細がわからなかった、書いてはいけなかった、などと想像してみたり。小泉神社のある場所には小さく「宮」と書かれているので、水論に関すること以外は省略しているのかもしれません。赤い線は道路であり、町方の道路事情がよくわかりますね。町方は「小泉町」村方は「小泉村」と区別して書き込まれているのも興味深いです。富雄川にかかる橋は、やはり慈光院の東側だけです。

※2023年7月2日追記
上記の「陣屋内の詳細が描かれていない件」について市のまちづくり戦略課文化財保存活用係様に問合せをしました。やはり、今回の水論に直接関係がないため絵師は詳しく書かなかったということだとご回答いただきました。

 

大和郡山市役所ロビーに展示された「元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図(控)の複製」を撮影した一部分を拡大し回転したもの

この、陣屋部分の図を見て、大和郡山市史p.365に掲載されている陣屋図と同じだと気づきました。市史を読んでいた時に、この図はどこからの引用なのかがわからず元史料に当たることができなかったので気になっていました。なんだか霧が晴れたような気分です。

大和郡山市史P365、第5章小泉藩に挿入された図のコピー

今回展示されていた絵図は、争いのあった3つの井堰全体を1枚の絵図に描かれていることや、各村に引水した溜池も克明に描かれていたり、小泉陣屋もまた克明に描かれていることが大変貴重であると解説されていましたが、3つの井堰や水路に関する絵図は関係各村にかなりの数が残っているとも書かれていて、そういう史料を公民館などで見ることができればいいのになあと思いました。

元禄三年(1690年)富雄川水論和解絵図」への2件のフィードバック

  1. up感謝! 素晴らしい記録図ですね♪ ①今はもう無い「デンガク池」「せんだんの木町」(小林町北)そして今の西田中町(近世の野崎村)が田中村領と書かれています。野崎が田中の属郷でのちに独立したのが確認できました。②竜田越え奈良街道が小泉城下町を通り抜け、橋は「不動院」の所1箇所のみというのは有事の際の備えでしょうか? 城下町入口付近の寺社境内が有事の際の前線基地になり得るというのは本当でしょうか?ならば防衛のため内堀と共に絵図に描くのは×になりますが…⁈ 小泉藩は入口に小泉神社と不動院・慈光院が位置していますが…よろしければまたぜひご考察をお聞かせ下さい! 

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    • 返信が遅れましてすみません。
      小泉神社は一応「宮」と小さく書かれていて、むしろ金輪院(庚申さん)や慈光院、善福寺が描かれていないので、お寺を描いていないのか?など逡巡します。

      この絵を描いたのは京都の絵師なので(署名者22人のうち最後の1人)、必要な記録だけを注文通りに描いただけなのかな、と素直に思っております。

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koizumibunko への返信 コメントをキャンセル